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運用失敗で自ら命を断った盟友 鉱山業、干拓事業で躍進 藤田伝三郎(下)

10/13(金) 15:40配信 有料

THE PAGE

 明治維新後、軍靴の製造で巨利を築き上げた藤田伝三郎(ふじた・でんざぶろう)は、組織を藤田伝三郎商店から藤田組に改め、さらなる事業拡大をめざしました。

 伝三郎の事業が順風満帆の最中、再び悲しい事件が起こります。運用失敗で自ら命を絶った山城屋和助に次いで、もう一人の盟友も失うことになってしまいます。

 その後、鉱山業や干拓事業にも進出していきます。儲けはすれども、慈善事業も行い、質素の生活を好んだ経済人の人生後半戦を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。


  運用失敗で自ら命を断った盟友たち

 一代の奇傑、山城屋和助(1838-1872 本名:野村三千三)が陸軍省の予備費の運用失敗で割腹自殺したとき、藤田伝三郎は山城屋のもとを離れ、大賀幾助と軍靴製造に追われていた。

 伝三郎が前出の社則に「米、油、綿、洋服の空相場を禁止する」との一項を入れたのは盟友の壮絶な死を見たからかも知れない。

 1881(明治14)年、伝三郎は事業拡大に伴い、藤田組と称する組合組織に改め、実兄藤田鹿太郎、久原庄三郎も参加し、陣容が一段と強化される。

 1887(同20)年には陸軍用達業、土木建築業を分離し、鉱山業に主力を注ぐこととなる。その中から怪物、久原房之助(兄庄三郎の4男)が誕生するのはよく知られるところ。

 伝三郎は山城屋の死から11年経った1883(明治16)年、もう1人の友、中野梧一の自殺に遭遇する。中野は前出の贋札事件でともに逮捕され、世間の嘲罵を浴びたのち、ともに無罪放免、青天白日の身となる間柄。2人の結び付きについては諸説ある。

 幕臣中野は長州征伐のとき、数カ所に傷を受け、有馬温泉、御所の坊に投宿した。そのころ湯治客に呼ばれて新顔のアンマがよくもみに回っていたが、これが奇兵隊を脱走した伝三郎であった、というのも、これは少々マユツバの臭いがある。2人の出会いはもう少し後年で明治維新後とみるのが穏当だろう。中野は1871(明治4)年山口県参事、1872(同5)年権県令、1876(同9)年県令として山口県下で羽振りを利かしていたころ2人は親密になったのではなかろうか。  本文:4,161文字 この記事の続きをお読みいただくには、THE PAGE プラスの購入が必要です。

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最終更新:10/18(水) 5:47
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