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【二十歳のころ 江本孟紀氏(3)】監督に歯向かい4年秋に戦力外

10/13(金) 15:00配信

サンケイスポーツ

 法大1、2年生時と、くすぶっていた俺に、光が見えたのは、3年生になった1968年。

 腰痛が癒え、体調も戻り、春季リーグ戦から絶好調。勝てば優勝という慶大との最終戦。2安打完封で“胴上げ投手”になり、捕手の田淵幸一さん(元阪神など)とマウンド上で抱き合った。

 好調をもたらしてくれたのは、野球部部長の藤田信男教授のひとこと。「自分の投げやすいフォームでいけ」だった。

 松永怜一監督は、いわゆる「早稲田スタイル」のフォームを指導していた。ラジオ体操のように、両腕を同時にバランスよく、左右に広げて振り上げ、投げ下ろす。確かに無理のない、理想のフォームともいえる。

 ただ、俺の腰の回転は横向きだった。そこに気付いた藤田先生が「横からでもいいから、投げろ」と言ってくれてね。オーバースローから、スリークオーターに変えて、成功したんだ。

 法大の前監督で、後に東京オリオンズ(現ロッテ)監督も務めた田丸仁さんには「バネのある、ロケットのような投法をしろ」とアドバイスされた。おかげで小さくまとまらずに済んだかな。

 優勝投手という実績がついた。自信も増した。これで、あの人に近づく権利を得た。そう思うと、うれしかった。あの人とは、子供のころからのあこがれ、長嶋茂雄さん(元巨人)だよ。

 俺が東京六大学を選んだのは、高知商高3年の春、センバツ大会直前で出場取り消し処分を受け「甲子園の代わりに神宮で花を咲かせる」と決意したから。長嶋さんが立大で活躍したのと、同じ舞台に立ちたかった。

 高校3年(1965年)の秋、西鉄にドラフト4位指名され、スカウトの訪問を受け、ボストンバッグに詰め込まれた契約金800万円を目の当たりにしても、「お金の問題ではありません」とお断りした。

 まず六大学で活躍して、プロに進み、長嶋さんの近くで戦う。3年生になってようやく、その目標が現実のものとなりつつある。光明がともり武者震いした。まさか二十歳の春が、神宮での絶頂期になるとは、思いもよらなかったからね。

 そう、最後もやっぱり暗転した。原因はまたも、松永監督に歯向かったから。4年生の8月。1年生部員の親が「上級生のしごきがひどい」とクレームをつけてきた。監督は4年生に集合をかけ、主将と副主将に「しごきなんかやめろ」と説教した。俺は後方で腕を組んで聞いていたよ。10分、20分は我慢したよ。30分も続くと、もうダメだ。

 「えらそうに、うじうじ言うな。あんたも俺たちをしごいたでしょう」とタンカを切り、監督を激怒させてしまった。

 そして秋のリーグ戦。俺にユニホームは与えられなかった。戦力外だ。

 4年春までにマークしたのは…。通算6勝くらいだったかな? 実のところ、初勝利も覚えていない。数字は追い求めないタイプだったからね。

 そんな俺でも、4年秋の重要性は熟知していた。プロへ入るために、最も大切なシーズン。ドラフト指名への“審査会”ともいえる。その舞台を失った。俺の六大学野球は幕を閉じ、プロへの道も開かれなかった。

 高校、大学と、なぜいつも、うまくいかないのか。冷や飯ばかり食わされるのか。スカウトは俺を忘れたのか-。ここでも思い上がり、他人のせいにしていたよ。(あすに続く)

最終更新:10/13(金) 16:08
サンケイスポーツ

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