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【大仁田厚ヒストリー〈13〉】チャボのトロフィー殴打が原点…日本初の有刺鉄線デスマッチ

10/13(金) 12:02配信

スポーツ報知

 1989年12月10日。大仁田厚が旗揚げしたFMWの後楽園ホールに有刺鉄線が巻かれた異様なリングが登場した。

【写真】初代タイガーマスクと戦った大仁田厚

 「ファンにリアルに痛みが伝わるプロレスをやってやろうって、それだけだった」

 心の底にあったのはちょうど1年前、「チケット持ってますか?」と門前払いを受けたUWFへの対抗心だった。それは大仁田の中でたまっていた怨念とも言えるだろう。プロレス独特のロープワークを否定しキックと関節技を主体としたスタイルで爆発的な人気を獲得していた前田日明が率いるUWF。ファンは、そのスタイルに今の総合格闘技に通じる真剣勝負の匂いを感じていた。しかし、大仁田から見れば根っこは同じプロレスだった。

 「何でもそうだと思うんだけど、右があれば左があるように、どっちかが圧倒的に支持されれば、もう片方を求める欲求が出てくるものなんですよ。だから、オレはUWFが絶対にできないことをやろうとした。UWFにはないものを求めているファンが必ずいると思った。当時は、プロレスファンの人口がすごく多かったから、そこに助けられたというのもあった」

 さらに、日本のプロレス界で「金網デスマッチ」を看板にしていた国際プロレスが81年9月に崩壊後、デスマッチはほとんど消えていた。89年当時、日本のプロレスファンにとってデスマッチは新鮮で好奇心をあおるスタイルだった。大仁田自身もデスマッチをやってみたいという思いがあった。それは、全日本時代の82年11月、チャボ・ゲレロとの試合後にトロフィーでめった打ちにされた体験があった。

 「あの時は何の予告もなくいきなりチャボにめちゃくちゃやられたんだけど、“あっこれ面白ぇな”って思ったんだよね。何でもありでハチャメチャやるのもありだってね。あそこにデスマッチの原点がある」

 大仁田の読みは当たった。日本初の有刺鉄線デスマッチを目撃しようと、後楽園ホールには超満員2300人のファンが押し寄せた。10月に旗揚げして2か月。生まれたばかりのFMWにとってデスマッチへ踏み込んだことは、団体が生き残る賭けでもあった。

 「後楽園ホールを満員にすれば、1000万ぐらいの収入が入ってきた。それを地方巡業の資金にしていた。後楽園が入らないとFMWは、回っていかなかった。だから、絶対に後楽園は成功させなければいけなかった」

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最終更新:10/13(金) 12:02
スポーツ報知