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バド日本代表監督が独白 弱小国から世界トップになるまで

11/7(火) 9:26配信

日刊ゲンダイDIGITAL

 昨夏のリオ五輪。バドミントン女子ダブルスで高橋・松友の「タカマツ」ペアが日本初の金メダルを獲得した。勝利の瞬間、コート内に倒れこむ高橋に駆け寄ったのが、朴柱奉ナショナルヘッドコーチ(監督=52)だ。2004年11月の日本代表監督就任後、世界選手権や五輪で初戦敗退を繰り返していた日本選手は明らかに変わった。ロンドン五輪の女子ダブルスで藤井・垣岩の「フジガキ」ペアが銀メダル、リオでは女子シングルスの奥原も銅を獲得。成長の裏には、旧態依然とした体質を打ち破った朴監督の改革があった。

 ◇  ◇  ◇

 昔の日本代表は、世界ランキングを上げる目的で、レベルの低い試合をこなしてポイントを稼いでいました。ランクは高いのに、大きな大会では簡単に負ける。世界選手権やオリンピックも、出場するためのチケット(権利)をもらって、そこで終わり――という状態でした。私はアテネ五輪後にナショナルコーチとして日本に来ましたが、アテネでは出場選手11人のうち、10人が1回戦負け。それでも「ランキングが低ければオリンピックチケットすらもらえない。チケットがあるんだからいいでしょ」という日本の考えに驚きましたね。

 当時の日本には、本当の代表監督、つまりJOCや日本バドミントン協会からサラリー(給料)をもらってやっている人はいなかった。(実業団などの)各チームのコーチや監督が大会に遠征するときだけ「ナショナルコーチ」を名乗って代表チームにつく形。5000円ほどの日当をもらって、試合が終わればバイバイ。だからコーチもスタッフも責任がなかったし、プレッシャーもなかったと思う。

 日本に来て初めてのインドネシアオープン(04年12月)で、男子のシングルス3人が全員1回戦で負けました。試合後、ホテルへ戻るまでバスの中で、男子選手がヘラヘラと笑ってしゃべっている。私は部屋に集合させて怒りましたね。

 当時は通訳を介して「普通は反省会じゃないの?」「男子は明日から女子の応援団をやるしかないね」と、あえてプライドを傷つける言い方をしました。

 私の目的は日本のレベルを上げること。まずはレベルの高い国際大会に出て、世界のレベルと自分の実力にどれくらいの差があるかを選手に分からせることから始めました。いくら私が「このままじゃダメ。頑張って」と言っても、選手本人は納得してくれないですから。予想通り、最初の頃はずっと1回戦負け。目標のベスト16に入るのも1年くらいかかりました。

■代表合宿をやると所属チームから苦情が

 そもそも、私が来る前は合宿がなかったんです。所属チームで練習して、大会前に空港で集合して、終われば解散。みんなで練習する環境がないなんて理解できなかった。合宿に行かないで何のアドバイスができるかと。

 08年北京五輪前の世界選手権でベスト8以内に入る選手が増えてきて、JOC(日本オリンピック委員会)も少しずつ力を入れようという雰囲気になってきた。結果が出て、選手はモチベーションも上がって楽しかったと思う。逆に、所属チームからのコンプレイン(苦情)が多かったです。チームの監督は「私の選手だ」といってコントロールしてくるので、合宿の時期を伝えても「なんでこんなに早いのか」と言われたり、たとえば、潮田(玲子)が女子ダブルスとミックスダブルスの2つにエントリーすると、(当時所属していた三洋電機から)「なぜ2種目も?」と。ナショナル監督の決定に、所属チームがダメと反対する。これにはショックでした。

 リオ前の1月に3週間、沖縄で砂浜キャンプをしたとき、厳しいフィジカルトレーニングで山口茜がケガをしたときも、チーム(再春館製薬所)の前の監督から、もう言葉でボンボンボンと(攻撃された)。「なぜこのタイミングで合宿したんですか。なぜ砂浜トレーニングなんですか」と。でも、チームのリクエストを全部聞いていたら、ナショナルでは動けません。4~5年間はチームのコンプレインにかなりファイティングしました。

 協会の専務理事や本部長は真ん中(板挟み)で頭が痛いでしょうね。いまもファイティングすることはありますけど、昔ほどではありません。結果が出てきたというのもありますし、各チームの監督やコーチが私の下で代表選手としてやっていた人もいるので、「朴さんはこのスタイル、考え、目的でやる」と分かってくれる。昔よりはコミュニケーションを取りやすくなりました。私も、いま考えれば韓国スタイルで攻撃的だったかもしれません。いまは日本の感じも分かって、結果も出て余裕も出てきたので、昔よりワンテンポ置いて話せるようになりましたね。

▽パク・ジュボン 1964年、韓国出身。韓国代表として92年バルセロナの男子ダブルスで金メダル、96年アトランタの混合ダブルスで銀を獲得。世界選手権でもダブルス種目で5つの金を取ったことから、「ダブルスの神様」といわれる。イギリスで2年、マレーシアで3年監督を務めた後、2004年11月に日本代表監督に就任。