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「17歳、生まれて初めて自分の名前が書けた」 夜間中学卒を誇りに生きる男の記憶

11/18(土) 12:24配信

ハフポスト日本版

満州からの引き揚げ中に家族とはぐれ、戦争孤児として生きてきた男が、生まれて初めて自分の名前をかけるようになったのは17歳のころ。21歳で夜間中学に入り、文字と言葉を学んだ。

男の名は高野雅夫(77)。今でこそ、夜間中学は不登校経験者や日本で暮らす外国人たちの学びの場として注目されているが、かつては、法律で認められていないことを理由に国は廃止を迫った。そんな動きにたった一人、立ち向かったのが高野だ。

「俺たちにとって学ぶということは、ただ文字が書けるようになるってことじゃない。人間としての誇りと権利、そして差別と戦う武器となる『文字と言葉』を奪い返すことなんだ」。口ぐせのようにそう語る彼の生き様を、インタビューを通じて振り返る。(関根和弘/ハフポスト日本版)

満州から引き揚げ

高野は日中戦争が始まってから2年後の1939年、旧満州に生まれた。だが、これは正確ではないかもしれない。というのも、幼少の頃の彼を知る手がかりは何もなく、かすかに残る自身の記憶だけだからだ。

《俺は日本人なのか、中国人なのか、朝鮮人なのか、本当のところはわからない。満人の子どもたちと遊んでいた路地裏に、赤ん坊がたくさん捨てられていた光景が脳裏に残っている。それが3、4歳のころ。もしかしたら俺も捨てられていた赤ん坊で、「タカノ」なんとかというおふくろが拾って、「マサオ」と名付けただけかもしれない。

病弱なおふくろはほとんど寝たきり。お手伝いさんのクーニャン(中国語で若い女性のこと)に育てられていた。きょうだいがいた記憶はない。

親父の記憶も全くない。あるのは1枚の写真だけ。ある寒い冬、オンドル(床暖房)のある小さな部屋で、俺とおふくろ、クーニャンの3人で親父のお通夜をやった記憶がかすかに残っている。その時、黒縁の額に入れられた男の人の写真があって、兵隊さんの帽子をかぶっていた。それが親父じゃないかと思う。それ以外はまったく覚えていない。

戦争が終わって、おふくろやクーニャンと一緒に逃げた。持てるだけの荷物を持って。途中まで一緒だった記憶があるんだけど、どこではぐれたのか死んだのか。殺されたのか。全く記憶にない。たくさんの人が歩いて逃げていて。その波にくっついて行っただけ。

昼間動くと中国人やロシア人たちに皆殺しにされるってことで、コーリャン畑の中とか小さな森の中で林の中にじっと身を潜め、夜になるとぞろぞろと歩いた。

お母さんのおっぱいが出なくなって、小さい赤ん坊が「ぎゃあぎゃあ」泣くんだけど、その泣き声で中国人やロシア人に見つかると困るってんで、男たちが赤ん坊の首を絞めて殺そうとした。そしたら、そのお母さんが「どうせ殺すなら私が殺す」って言って。

どこからあんな力が出てくるのかわからないんだけど、男たちを突き飛ばして、自分の生み育てた赤ん坊の首を絞めて殺した。死んだ赤ん坊を背負うんだけど、死んでるから首がだらんとなって。その記憶は鮮明に今でも忘れられない。》

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最終更新:11/18(土) 15:52
ハフポスト日本版