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エネルギー小国日本の選択(15) ──迫られるエネルギー政策の抜本見直し

11/30(木) 16:00配信 有料

THE PAGE

 東京電力福島第1原発事故で原子力反対の声が強まる中、国と企業は必然的に変容を迫られた。時の民主党政権は急速に脱原発に舵を切り、稼働する原発をなくす方針を2012年秋に明確に打ち出した。しかし年末の衆院選で、原発活用を掲げる自民党が圧勝。失策が続いて求心力を失った民主党の惨敗とも言える。

 自民党が政権を取り戻すと、再び原発推進派が息を吹き返し、原発をなくす方針は撤回された。

 こうしてエネルギー、特に原子力をめぐる政策方針は揺れ動いた。一方で太陽光など再生可能エネルギーは原発の推進、反対を問わず、両方から支持され、導入拡大へと向かった。

・脱原発に向かった時の政権

 「国民の皆様に重要なお知らせがあります」。東日本大震災から2カ月弱、菅直人首相(当時)は記者会見でそう切り出した。「浜岡原子力発電所(静岡県)の全ての原子炉の運転停止を中部電力に対して要請をいたしました」。原発事故の不安が冷めやらぬ2011年5月6日の出来事である。

 菅氏は「浜岡原発では従来、活断層の上に立地する危険性などが指摘されてきた」と説明し、熟慮を重ねた結果だという。夏の電力供給と計画停電の混乱も懸念されたが、「原子力反対の世論が強まる中、稼働を続けると政権への逆風になりかねず、先手を打った」(大手電力幹部)との見方がなされていた。「脱原発、再生可能エネルギー推進を目指す菅氏の熱情は異様だ」(資源エネルギー庁中堅職員)との声もあった。

 浜岡原発停止の要請を、原発反対派は評価し、推進派の電力業界や自民党は疑問視した。賛否が巻き起こったが、中部電はこの要請を受け、動いていた浜岡4、5号機を止めると決定した。

 原子力行政機関も改編された。規制する側の原子力安全・保安院(当時)は廃止に至った。保安院は、推進する側の資源エネルギー庁と共に経済産業省の所管であり、「中立的立場から規制できないのではないか」という懸念がかねてから出ていた。2011年5月下旬から原発事故の調査に訪れていた国際原子力機関(IAEA)は、保安院の独立性や役割の明確化が課題だと指摘した。IAEAは震災前の2007年にも同様の疑問を保安院に投げかけていたが、具体的に生かされないまま、過酷事故は起きてしまった。

 保安院の前身は科学技術庁(現文部科学省)の原子力安全局だったが、2001年の省庁再編で経産省側に引き込まれた経緯がある。人事交流により保安院でも働いた経験を持つ資源エネルギー庁の男性幹部は原発事故後、「馴れ合いが生まれる素地があったと見られても仕方ない」と吐露した。 本文:3,418文字

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最終更新:12/4(月) 13:19
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