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大荒れ相場を全財産で支え、仲買人を救った義侠の相場師 岩本栄之助(上)

12/3(日) 12:01配信 有料

THE PAGE

大荒れ相場を全財産で支え、仲買人を救った義侠の相場師 岩本栄之助(上)

岩本栄之助、『新・北浜盛衰記』、松永定一著より

(この記事は、2016年08月27日に月額有料サービスで配信した記事の再掲載です)
 大阪の株式仲買人だった岩本栄之助は、1907(明治40)年の株式市場大荒れ時に仲買人たちから要請を受け全財産を投じて相場を支え、北浜の中小仲買店の救世主として株式界にその名を轟かせました。米国の鉄鋼王カネーギーの影響を強く受け、大阪市中央公会堂の寄付者としても知られています。

 信念を曲げない戦いっぷりを見せつけたことで株仲間たちから慕われ、取引所で働く少年たちの教育にも気遣ったという義侠(ぎきょう)の相場師」の相場に捧げた壮絶な人生を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。 


  辛口で有名な論評家からもたたえられた「義侠の相場師」

 大正元年に出版された人物論集『奇人正人』(戸山銃声著)は辛口で有名だが、岩本栄之助については手放しで、こうたたえる。

 「贅六(ぜいろく、江戸時代、江戸の者が関西人をあざけっていった言葉)の分際で100万円を公共事業に奉納するとは、空前の珍談で、鴻池も住友も真似はできない。彼は株の仲買商だが、よく目先が利き、度胸もあるのでとんとん拍子でついに200万円勝ち得た。その半ばを割いて公共事業に喜捨した。男らしい男で大々的慈善をなせるものだ。賛辞を呈せざるを得ない」

 1906(明治39)年から07(翌40)年初めにかけて株、商品とも大相場を展開する中で、当たり屋筆頭の鈴久(鈴木久五郎)の買い占めによって、大阪北浜の仲買人たちが窮地に陥った。その時、岩本に助けを求めた。大阪株式取引所(大株)の大株主でもあった岩本に持ち株の放出を願い出ると、岩本は快く、売り要請に応じた。野村徳七はじめ北浜の仲買人たちは死地を脱出することができた。以来、「義侠の相場師」と評されるが、同43年に至って、また岩本に出馬要請がくる。

 こんどは高倉藤平(1875-1917)が堂島米穀取引所株の買い占めに乗り出してきて、地場のカラ売り連中が悲鳴を上げる。そこで岩本が花道に現れる。沙羅双樹著『浪花の勝負師-北浜に華と散った男の生涯』はこう描いている。

 「岩本は店を出ると、『今日はわいが手を振る』と場立ちの石川新吉に言った。岩本は急ぎ足で立会場に入る。守衛が立会場の入り口を固めていた。1人1人の入場をチェックしている。立会場の中央で高倉藤平は先着した藪田忠次郎(ベテラン相場師)と立ち話をしている。今朝はさすがに立会場はガラ空きである。通常は、店から2人でも、3人でも入り込んで場立ちの資格のない者まで騒ぎ回っていたが、今朝は入場禁止で、外で騒いでいる。取引所の外はそれらの群集で一杯である。『あ、岩本はんが来ました』。藪田が高倉に言った。高倉は洋服姿である。懐中時計の金鎖を右手でまさぐりながら『今日は雌雄を決せんならん。藪田さん。今日は250円まで買い上がるで』」

 これには千軍万馬の藪田も驚いた。堂島取引所株の立会停止前の終値は208円90銭である。それを250円まで持ち上げてみせると豪語する高倉。場内は水を打った静けさ。いよいよ立会開始。「成り行き売ろう」とまず第一声を発し、「150円ヤリ」と叫んだのは岩本だった。目は血走り、額面は蒼白である。一方の高倉は百戦錬磨のつわ者、悠揚迫らず微笑みさえ浮かべて、「成り行き買おう。250円カイ」と叫んで市場は大混乱、取引所はまたまた立会を停止した。  本文:2,586文字

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最終更新:12/6(水) 5:48
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