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「売りで蔵は建たない」 持ち前の強気で猛然と買い進む 野村徳七(下)

12/5(火) 13:20配信 有料

THE PAGE

「売りで蔵は建たない」 持ち前の強気で猛然と買い進む 野村徳七(下)

2代目野村徳七(『野村得庵』野村得庵翁伝記編纂委員会発行より)

(この記事は、2016年10月28日に月額有料サービスで配信した記事の再掲載です)
 大胆で積極的な「買いの兄」と堅実な「売りの弟」。野村徳七2代目と実三郎は二人三脚で野村財閥をさらなる躍進へと導きました。しかし、万事がうまく進まず、実三郎がインフルエンザで他界してしまいます。弟亡きあと、徳七はどのように相場と戦っていったのでしょうか? 印象的な言葉の数々を残してきた徳七の神髄ともいわれる「野村家家憲」をはじめ、投資家人生の後半を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。


  日露戦争の熱狂相場で、野村にも赤信号

 1918(大正7)年、野村徳七は諸株高騰で空前の大資産を手にするが、市場の熱狂ぶりを間近にみて、早くから警戒信号を発していた。“野村の赤信号”と呼ばれ、日露戦争の時「相場は狂せり」と発した、撤退せよとの信号と同じものだ。

 「この景気は戦時中に欠乏した平和物資の一時的な需要増加が動機となるものであるから、需要が一巡するとあとには不景気が来襲する。長期的需要を見越して、生産拡張を行った企業は、かならず怖るべき反動に巻き込まれるはず、と徳七はこの景気の先行きを読んだ。野村商店では、この情勢をもとに1920(大正9)年3月上旬から連日、調査部発行の各種出版物に赤紙を貼りつけて、顧客に注意を呼びかけた」(木村勝美著『相場は狂せり-野村証券創始者・野村徳七の生涯』)

 弟、実三郎が存命だったころ、「買いの徳七、売りの実三郎」と評されたものだが、実三郎亡きいま、さすが強気の徳七でもこの熱狂相場には恐れをなした。世間ではこの黄金景気が永遠に続くような錯覚にとらわれていたが、野村は冷めていた。果たして1920(大正9)年3月15日、パニックが襲来し、株も商品も地すべりを起こし、成金たちを奈落の底に落とし入れる。だが、野村のケガは浅かった。早めの撤収作戦に助けられた。

 野村は五黄寅年の生まれで、激しい性格には側近の連中もピリピリしていた。後に野村合名の理事に就く山内貢でさえ、失敗したときは、「おめおめと生きて帰ってきたな、恥を知れ」と罵倒された。「何事も命がけでやれ、仕事でも遊びでも」というのが徳七の信条であった 本文:2,320文字

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最終更新:12/8(金) 5:51
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