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ザ・デストロイヤー、敬意と誇りのマスク「日本人の前では外さない」「生涯ナンバーワンは力道山」

12/6(水) 16:56配信

夕刊フジ

 「白覆面の魔王」として日本を沸かせた元プロレスラー。武道館での引退試合から24年がたったが、長年の日米交流活動が評価され、「平成29年秋の外国人叙勲」で旭日双光章を受章した。

 「日本人にはいつでも本当に良くしてもらった。受章の気分? 最高だよ」

 自宅のあるカナダ国境に近いニューヨーク州北西部の人口約3000人の小さな町、アクロンを訪ねると、往年のマスク姿で登場。レストランではマスク姿のままオムレツを平らげ、コーヒーを飲む。

 「苦しくないんですか」。思わず聞いてみると、「眼鏡をかけているのと同じこと」と返された。「日本人の前ではマスクは外さない」と素顔の撮影はNG。87歳になった今も「覆面レスラー」のイメージを頑なに守り続ける。

 大プロレスラーは、名門シラキュース大大学院で教育学の博士課程を修了したインテリでもある。大学時代からレスリングやアメリカンフットボールの選手として活躍し、1962年にロサンゼルスのプロモーターにスカウトされ、「覆面レスラー」に転向し人気を博した。

 「私は覆面レスラーだからこそ、本当のレスリングを観客にみせることを心がけていた」

 マスクにも人一倍のこだわりをみせ、当時、妻手作りの女性用のガードル製のものを使用。「デパートでガードルを頭から試着していたら、変な目で見られたよ」と笑う。

 「私と家族の人生を変えた」というのは、63年の初来日だ。アメリカWWAのヘビー級王者として力道山と戦い、日本に空前のプロレスブームを起こした。

 「生涯ナンバーワンの対戦相手。力道山の空手チョップは他の誰のものより強烈だったよ」

 また、当時の日本人の反応にも感銘を受けたという。

 「10歳のときに日米開戦があった。日本は敵のような感覚だったのに、初来日のときには自分を仲間のように迎えてくれた。感動したね」

 初来日から約10年後、ジャイアント馬場に誘われ、全日本プロレスに参戦。妻と3人の子供とともに日本に移り住み、リング上だけでなく、バラエティー番組『金曜10時! うわさのチャンネル!!』でも活躍した。

 出演には「プロレスラーとしてのイメージが崩れる」と迷いもあったが、家族の後押しで決断。人気者になれたのは、司会者だった和田アキ子のおかげと感謝する。

 「和田アキ子が、私をコメディアンにしてくれた。私が何をしても何を話しても、笑いに変えてくれた。ハリセンで彼女にはたかれたことも楽しい思い出だよ」

 インタビューの合間には、町の人々から「コーチ!」と次々と声がかかった。プロレスラーとして現役を退いた後は、地元の小学校の体育教師や高校の水泳、アメリカンフットボールの指導者として活動。80歳になるまで続けたという。

 「大学院に通ったから、指導者として働くことができた。地元では、私がプロレスラーだったことを知らない人もいる」と話す。

 引退後、叙勲の受章理由ともなった日米交流活動にも尽力。「米国の子供たちにも私と同じ経験をさせてあげたかった」と、高校生や、7歳から12歳の子供たちを日本に連れていく活動を20年以上続けた。

 今の夢は、日本滞在中に出会った北海道発祥の「パークゴルフ」を米国で広めること。家族が2014年に自宅敷地内に「デストロイヤーパークゴルフ」をオープンさせた。

 夏のシーズン中は毎日、ゴルフカートを運転して入り口で出迎え、自ら“案内板”となる。パークゴルフには「デストロイヤー記念館」も併設され、チャンピオンベルトのほか、力道山や和田アキ子との写真なども飾られる。

 足が悪く、数年前からは歩行器が欠かせない生活。必殺技の「四の字固め」はできなくなったが、前向きで、人なつっこい性格は変わらない。

 「See you in tokyo!」

 インタビューを終えて別れ際、力強いハグも印象的だった。(ペンとカメラ・上塚真由)

 ■ザ・デストロイヤー 元プロレスラー。本名・リチャード・ベイヤー。1930年7月11日、米ニューヨーク州生まれ。87歳。米シラキュース大大学院修了。54年にプロレス界にデビュー、62年に覆面レスラーに転向。同年に覆面レスラーとして初の世界王者となった。63年に初来日し、同年5月のWWA世界選手権の力道山戦は平均視聴率64%を記録し、歴代4位にランクイン。日本には72~79年に滞在し、全日本プロレスに所属、テレビタレントとしても活躍した。帰国後も度々日本を訪れ、93年7月に武道館で引退試合を行った。日米通算の試合数は約8500に上る。

最終更新:12/6(水) 17:05
夕刊フジ