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荒木大輔氏が青森・三沢へ 大エースの太田はとにかく負けず嫌い

12/6(水) 15:00配信

サンケイスポーツ

 【夏の甲子園/ザ・ミュージアム】 早実のエースとして5季連続で甲子園に出場した荒木大輔氏(53)=サンケイスポーツ専属評論家=が、夏の甲子園大会の歴史を掘り起こす企画。2回目は第51回大会(1969年)で準優勝した三沢(青森)を訪ねた。松山商(愛媛)との決勝は延長18回の末に0-0で引き分け。翌日に決勝史上初の再試合が行われ、三沢は全6試合を一人で投げ抜いた太田幸司投手の力投も及ばず、2-4で涙をのんだ。 (構成・松尾雅博)

 1枚の写真がある。準優勝から約1カ月後、八戸市から三沢市まで準優勝パレードを行ったときのものだ。バッテリーを組んだ2人のユニホームは汚れたまま。捕手だった小比類巻英秋さん(66)は「泥を落としたくなくてね。太田(幸司投手)も同じ気持ちじゃなかったのかな」と、懐かしそうに写真を見つめた。

 青森県在住の三沢の準優勝メンバーにお会いしたのは、米軍三沢基地近くのすし店。小比類巻さんのほか、一塁手の菊池弘義さん(66)、三塁手の桃井久男さん(66)、センバツまで正捕手だった主将の河村真さん(66)、1学年下で2年時はマネジャーだった吉田光幸さん(65)が集まってくれた。私も1年時(1980年)、決勝で敗れて深紅の優勝旗を手にできなかった。皆さんはどう思っているのだろう。

 菊池 「勝ち負けにこだわらなければいけないのだろうけど、淡々としていましたね。逆に(名門の)松山商は、絶対に勝たなければいけなかったのではないかな」

 桃井 「僕たちは(2年夏と翌春のセンバツでできなかった)2回戦突破が目標だったからね」

 河村 「僕はセンバツの後に椎間板ヘルニアが出て、最後の夏はプレーをしないで、ベンチから一歩引いて見ていました。だから言えるんだけど、やっぱり“たられば”は出てくるなあ」

 菊池 「自分が本塁でアウト(延長十五回一死満塁で三塁走者だったが、投ゴロでスタートが遅れて本塁封殺)にならなければ勝っていたな、と思いますよ」

 桃井 「でも、決勝を2試合も戦ったという事実は消えない。あれだけチャンスをもらったのに生かせなかったのは、力がなかったからだよ」

 河村 「勝者の弁もいいけど、敗者の弁にも価値がある。こういう話ができることが幸せです」

 吉田 「いい宝物をもらいました」

 決勝再試合は史上初。延長18回を戦った後はどうだったのだろうか。

 桃井 「松山商と、もう1試合できるという喜びはありました。さすが名門で、(試合前の)シートノックがきれいだったなあ。でも、夕食のすき焼きには誰も手をつけなかったね」

 小比類巻 「すき焼きだったかな? 疲れていて記憶にないよ。翌日はキャッチボールから大変だった」

 菊池 「でも、太田はおかしいくらい、肩が強かったね。絶対に“痛い”と言わなかったもの」

 現在のように1県1代表ではなく、県立校が北奥羽大会(青森、岩手)を勝ち抜き、3季連続で甲子園に出場するのは快挙だったと思う。

 桃井 「入学したときは、甲子園なんて夢のまた夢。初めてベンチからグラウンドへ足を踏み出したときのことは忘れられませんね。すごい球場だなあ、と。あの感動を後輩たちに伝えたいですよ」

 菊池 「開会式のリハーサルでは、みんなの足がそろわなかったもの」

 準優勝メンバーのうち太田さん、菊池さんら5人は、三沢一中時代から一緒にプレーされていたそうだ。チームワークの良さは大きな武器だったと思う。

 河村 「野球と相撲しかないような時代ですから、三沢でも野球熱は高かったですよ。米軍の三沢基地でリトルリーグも行われていました」

 菊池 「軟式用グラブを使っている選手もいましたね。2度目(1969年のセンバツ)になると、学校がすごい道具をそろえてくれました」

 桃井 「そう。校長室に行くと、グラブとバットが並んでいてね」

 菊池 「好きなものを選びなさい、と」

 桃井 「センバツ後の春季県大会決勝で八戸工に負けた後、日大からコーチに来てくれたのも大きかったと思います。特に打撃指導には面食らいました」

 小比類巻 「とにかく逆方向を狙え、とね」

 河村 「以来、県内では負け知らず」

 桃井 「7割が(エースの)太田の力ですよ。本当は6割にしたいけど、打撃の技術なんて下の下だったから、やっぱり7割だね。3点以上取られたことがないんだから。1点取れば勝てると思ってやっていました」

 河村 「1-0や2-0の試合が多かったね」

 太田さんはチームメートにとって、どういう投手だったのだろうか。

 桃井 「守備位置(三塁)から見ていると、アウトコースの球がホップしているんだよ」

 小比類巻 「真っすぐとカーブしかないんだけどね」

 吉田 「ユニホームを脱ぐと普通の人だけど、とにかく負けず嫌い。冬は雪が積もってグラウンドで練習ができないから、ホッケー部とサッカーをやるんですよ。点を取られると、勝つまでやめない。おかげで足腰が鍛えられました」

 桃井 「走者が出て(守備位置の)三塁からマウンドへ行くと、嫌な顔をするんだよ。カッとしてインコースの高めが多くなる。これはやばいぞ、と(笑)」

 何十年たっても、思い出話をしながら仲間と楽しいひとときを過ごすのは、私たち早実も同じ。2回戦突破が目標だったチームが伝説の決勝再試合を戦ったのだから、なおさらなのだろう。 (サンケイスポーツ専属評論家)

 ◆準優勝当時のユニホームについて太田幸司氏(65)=兵庫・宝塚市在住 「できるものなら泥がついたまま、ずっとしまっておきたかったですね。しかし、誰かに『汚れたままだとボロボロになって長くもちませんよ』と言われて洗いました。今は甲子園歴史館に預けてあります」