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真珠湾攻撃の日 母校で戦争体験談 岡山の元飛行予科練習生河内さん

2017/12/6(水) 21:59配信

山陽新聞デジタル

 太平洋戦争の火ぶたを切った1941年の真珠湾攻撃。その日と同じ12月8日に合わせて毎年、母校の小学校を訪れ、生の戦争体験を語っている男性が岡山にいる。松山海軍航空隊(松山市)の飛行予科練習生だった河内操さん(88)=岡山市南区。「今の平和や裕福さが当たり前ではないと気付いてほしい」。攻撃から76年となる今年も、その一心で子どもたちの前に立つ。

 岡山市立福田小で活動を始めたのは15年ほど前。戦争体験を話せる人を当時の校長が探していて引き受けた。当初は日にちにこだわっていなかったが、6、7年前から「戦争の始まりを教えるため」と12月8日に定めた。6年生を相手に、真珠湾攻撃の説明を交えつつ、松山での空襲体験を中心に話している。

 終戦前年の44年春、通っていた岡山商業学校(現岡山南高)の教員に勧められて予科練習生になった。当時は15歳。毎日、体を鍛え、モールス信号や手旗信号を習った。

 1年半の生活で、決して忘れられないのが米爆撃機B29による空襲(45年5月4日)だ。逃げ込んだ航空隊の防空壕(ごう)から100メートルほど離れた所にあった煮炊き用の「烹炊(ほうすい)所」や兵舎などを爆弾が直撃し、予科練習生や軍事関係者69人が命を落としたとされる。河内さんは何人ものけが人を医務室に運び、血だらけで「お母さん」と泣く人、腹から飛び出した内臓を手で押さえている人を目の当たりにした。遺体は八つの大きな風呂に収容した。

 周辺で暮らす民間人も犠牲になった。「病院に連れて行って」と航空隊にやって来た女性は、片目が垂れ下がり、動かなくなった赤ん坊を抱いていた。

 「修羅場とは、ああいう状況を言うのだろう」

 終戦の1カ月後に復員し、しばらくして、5歳年上の兄の死を知った。徴兵されて沖縄にいたという。「この戦争は間違いだ」と言っていた兄。そのたび「非国民!」とけんかした。兄の戦死公報を受け取り、ぼろぼろと涙を流す母の姿は今もまぶたに焼き付いている。くしくも、記されていた死亡日は、河内さんが松山で空襲に遭ったのと同じ日だった。

 「近ごろは大人でも12月8日が何の日かを忘れとる人がおる。だからこそ、子どもたちに戦争のむごさを知らさんといけん」

 ありのままを伝えようと、河内さんは母校の子どもに対し、目を覆うような光景も包み隠さず口にする。戦時を生きた世代が高齢化していく中、記憶の風化にあらがう気持ちは人一倍強い。

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 真珠湾攻撃 当時の日本軍が米ハワイ・オアフ島の真珠湾にある米軍の基地や艦隊を戦闘機などで攻撃し、米国人約2400人が死亡した。中でも1177人が死亡した戦艦アリゾナの沈没は、米軍史上最悪の艦船被害の一つ。日本側は航空機29機などを失い、60人余りが死亡したとされる。米国は翌日、日本に宣戦布告した。

最終更新:2017/12/6(水) 21:59
山陽新聞デジタル