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【今こそ知りたい幕末明治】小倉藩のいちばん長い日

12/8(金) 7:55配信

産経新聞

 第2次長州戦争(幕長戦争)小倉口の戦いは、慶応2(1866)年6月17日、7月3日、同27日の3回にわたって戦闘が繰り広げられた。小倉藩小笠原勢は自領内に攻め寄せた長州勢と3回戦い、2回は敗れたが、3回目の赤坂の戦いでは熊本藩細川勢と共闘し、長州勢を撃退した。

 しかし7月30日、将軍徳川家茂病没の知らせを受けると、幕府軍小倉口の総大将であった九州総督の小笠原長行(ながみち)(唐津藩世子)は小倉から脱走した。

 そのため熊本藩勢をはじめ諸藩勢は、国元に引き揚げ始めた。「小倉藩小笠原勢だけで長州勢の侵攻を防ぐのは難しい」と、小倉藩重役は判断した。

 同日深夜、幕府の目付、松平左金吾と平山謙二郎が小倉城中に招かれ、やがて小倉新田藩主の小笠原貞正、播磨国安志(あんじ)藩主の小笠原幸松丸(後の貞孚(さだざね))、小倉藩家老の小宮民部と原主殿(とのも)、小笠原甲斐、さらに士(さむらい)大将の島村志津摩、小笠原織衛(ありえ)らが集まり、話し合いが行われた。

 小倉藩重役らは目付に次のように嘆願した。

 総督が脱走してしまった上は、小倉藩とその一族の小倉新田、安志両藩小笠原勢だけでの防戦は難しく、小倉城を「開城」する(放棄する)以外の手段はない。目付の2人に城を受け取ってほしい。

 困惑した2人は、小倉城を「自焼」し、要地に退いても構わないという趣旨の書(かき)付(つけ)を1通手渡して、城を去った。

 このことから江戸時代の大名、とりわけ譜代大名の城は、大名の所有ではなく幕府の所有で、大名は「城を幕府から預かっている」という考え方もあったと推測される。これは、譜代大名の頻繁な国替えからも言えるだろう。この考え方に沿えば、小倉城は幕府の九州支配における牙城であった。

 幕府の目付の「お墨付き」を得たことで、若殿小笠原豊千代丸(後の忠忱(ただのぶ))をはじめ、豊千代丸の亡父小笠原忠幹(ただよし)の正室や息女らを、肥後国熊本藩領に避難させる準備がなされた。忠幹は前年の慶応元(1865)年9月6日、小倉城で亡くなったが、第2次長州征討の最中ということで、その死は伏せられていた。

 小倉藩のいちばん長い日、8月1日は、五つ時過ぎ(午前8時頃)の豊千代丸ら一行の城内退去から始まった。篠崎口を出て木町を経て、田川通り(秋月街道)を南下した。同日夕刻、香春(かわら)岳のふもと採銅所(現田川郡香春町)に到着し、宿泊した。

 豊千代丸らはその後、肥後国熊本藩領に身を寄せ、約2年後の慶応4年3月、小倉(香春)藩領に戻ることになる。

 城は豊千代丸の退去後に焼けた。慶応2年8月1日四つ半時(午前11時頃、ただし時刻は諸説あり)、小倉藩家老、小宮民部の屋敷から火の手が上がった。これを「自焼」の合図と判断した同藩大目付の大堀一義は城内に火をかけるよう命じた。火は一挙に燃え広がり、城内にいた者は田川方面に立ち退いた。

 これは手違いによる自焼であった。城内に火をかけるのは小倉藩勢が蒲生近辺まで立ち退いた頃に、小宮の屋敷に火をかけ、それを合図として城内に火をかける手(て)筈(はず)であった。けれども、小宮の家来が誤って小倉藩勢が退く前に急いで火をかけたのだった。そのため、宝物の多くが焼失したといわれる。

 小笠原家の重要な書物や系図、道具、刀類などのいくらかは事前に運び出されたが、藩士の家々のそれらは、ほとんど運び出せなかったようで、最重要文書である藩士宛ての小倉藩主からの知行(ちぎょう)宛行(あてがい)状でさえ現存しているものの数は、他藩他家に比べて少ないようである。

 なお、小倉城天守は、6代藩主小笠原忠固(ただかた)の治世、天保8(1837)年1月4日、火災で焼失し、再建されなかった。

 さて、急な自焼は、熊本藩士、竹崎律次郎の提案を受けた小宮民部が独断に近い形で実行に移したもので、島村志津摩などは事後に知らされた。

 竹崎は、長州勢と戦った後に小倉城から撤退したならば「敗軍」(敗北)と見なされるので、長州勢が押し寄せる前に自焼し、速やかに要地に撤退するのがよいと提案した。それを小宮は、もっともな意見として受け入れた。

 小倉藩初代藩主、小笠原忠真によって事実上始まった徳川幕府の九州支配は、小倉城自焼によって崩壊した。小倉城の崩壊はすなわち幕府の九州支配の崩壊であった。

最終更新:12/8(金) 7:55
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