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<真珠湾攻撃76年>弟の生きた証し、石碑に 石川の98歳

12/8(金) 14:00配信

毎日新聞

 「立派に戦ってきます。決して犬死には致しません」。76年前の12月8日、旧日本軍による真珠湾攻撃に参加し、戦死した石川県七尾市の清水吉雄さん(当時20歳)は、前日に家族あての遺書にこう記したという。姉の林貞子さん(98)=同市=は「たくさんの人が尊い命を失った。なんということをしたか、と思う」と戦争を振り返り、平和な日々が続くことを祈る。【石川将来】

 当時の高揚した空気を貞子さんはよく覚えている。「今日は兵隊へ送れ、明日は遺骨を迎えろ。そんな時代でした」。近隣の男性が入隊すれば集落を挙げて盛大に見送り、やがて遺骨が月2、3人のペースで帰ったという。

 吉雄さんは海軍を志願。1938年に呉海兵団に入り、空母「加賀」に艦上攻撃機搭乗員として乗り組んだ。後に上官から届いた手紙によると、41年12月8日未明に出撃し、真珠湾に停泊中の米艦艇を魚雷で攻撃。直後に対空砲火を浴び、敵陣に突っ込んだという。

 よくケンカもしたが仲のいい姉弟だった。出撃前の休暇で帰省し、軍隊に戻る日、貞子さんと一緒に駅まで歩く道すがら、吉雄さんは何度も実家の方向を振り返った。「家を出たばっかりなのに」と貞子さんは不思議に思いつつ、「元気に行ってこい」と見送った。今思えば、最後の帰郷と覚悟していたのだろう。「軍隊のことは秘密だから、態度で表しとったんかな。さみしい思いだったでしょう」

 やがて実家に分厚い封書が届いた。「吉雄が死んだとよ」。父清岑(せいきん)さんが声を上げ、母やおいさんは仏壇に駆け寄って静かに手を合わせた。

 終戦から20年以上過ぎた67年、貞子さんは親戚にも協力を求めて実家に吉雄さんの忠魂碑を建立した。弟の生きた証しを残してやりたいとの思いからだ。道路沿いに建つ高さ約3・2メートルの碑に今も道行く人が合掌する。

 「志願して行ったんだからね、本望じゃなかろうか」と話しながら、貞子さんは遺影を見つめた。「独身のままで亡くなって良かったね、と。だって、家族がおったら、いとおしいじゃありませんか」

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 ◇真珠湾攻撃

 1941年12月8日未明(現地時間7日朝)、ハワイ・オアフ島真珠湾の米太平洋艦隊基地に旧日本海軍機動部隊が行った攻撃。太平洋戦争の引き金となった。電文処理の遅れから、日本が開戦通告なしに先制攻撃したとされ、米国民の反日感情を増幅させた。米側は戦艦アリゾナを含む21隻が沈没・損傷し、民間人49人を含む2390人が死亡。日本側は64人が死亡した。

最終更新:12/8(金) 14:00
毎日新聞