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【二十歳のころ 近藤真彦(4)】高級タイヤ40万円を工面した黒柳徹子さん伝説

12/8(金) 15:00配信

サンケイスポーツ

 母と慕う黒柳徹子さんとの出会いは、TBS系音楽番組「ザ・ベストテン」(1978~89年)だった。16歳のとき「スニーカーぶる~す」(80年)で歌手デビューして、番組に呼んでもらえるようになった。

 優等生アイドルが多かったなか、僕はやんちゃなイメージだったから、司会の黒柳さんは「変わった子がきたな」と思ったんだと思う。よく声をかけてくれた。

 忘れられないのは、18歳になって車を初めて買ったとき。僕が番組の中で、すずりと筆と墨汁のセットをプレゼントされた。黒柳さんはそれが欲しくて「あなた何か欲しい物ない? 交換しましょう」と言ってきた。僕は、扁平(へんぺい)率が低くて薄い当時流行っていた高級タイヤが欲しかった。

 黒柳さんに値段を聞かれ「4本で40万円です」と答えると、「このすずりが40万円もすると思えないけれど、わかったわ」と。どうするのかと思ったら、ジャニー(喜多川社長)さんとメリーさん(藤島メリー泰子副社長)に電話して、「私が10万円払うので、お二人も10万円ずつ出していただけませんか」と頼んだんだよ。

 残り10万円はなんと、「ベストテン」の司会を一緒にしていた久米宏さんにお願いしたんだ。久米さんは「なんで俺が」と文句をいいながら、結局は払ってくれた。黒柳さんって、すごいよね。

 その後も僕をかわいがってくれて、今でも月に1回以上は会う仲。94年に結婚したときも助けてもらった。当時、奥さんのご両親は芸能人との結婚に大反対。その話を黒柳さんにしたら、すぐに「近藤真彦は芯がしっかりした男です」という内容の長い手紙を書いてくれて、「これを彼女のご両親に持っていきなさい」と。それが後押しになって、結婚のお許しをもらうことができた。

 悲しい出来事もあった。22歳だった86年11月、交通事故でおふくろが42歳の若さで亡くなった。

 メディアの報道は過熱したけれど、僕は意外と冷静だった。あまりにも急だったし、当時は忙しくて頻繁に顔を合わせていなかったから、もう二度と会えないことに実感がわかなかったんだ。最初は涙も出なかった。徐々に寂しさに襲われるようになったけれどね。

 1年後の87年12月、母の墓が荒らされて、遺骨が盗まれる事件が起こった。もちろんショックだったけれど、それ以上に僕のせいで、親族に迷惑がかかったことに傷ついた。親類が取材されたり、その人の名が報道で出てしまったり…。僕が芸能界に入っていなければ、そんな迷惑はかからなかっただろうから。きつかったね。

 いまだに遺骨は見つかっていない。でも、おふくろの魂は今も近くで僕を見守ってくれている。そんな気がするんだ。

 二十歳くらいの人たちに伝えるとしたら、たくさん失敗した方がいい。芸能界で活躍したい人もいれば、将棋で頂点を目指す人や東大を出て官僚になりたい人もいるだろうけれど、どの分野でも失敗は大事。学校の教科書では学べないことを、社会が教えてくれる。僕もたくさん失敗をして、今があるからね。 (おわり)