ここから本文です

富士山と宗教(7)幕府による禁令、神道国教化政策。江戸民衆信仰のその後

1/10(水) 15:31配信

THE PAGE

 江戸幕府が、「俗体にて山伏に扮した講仲間の取り締まりを行う禁令」を出したのは安永4(1775)年のことだ。その20年後の寛政7(1795)年には富士講を名指しで取り締まるお触れを出している。江戸後期、庶民の間で爆発的に人気が広まった富士講だが、幕府が禁令で取り締まる対象でもあった。

職業や身分、男女の平等に通じる身禄の教え

 多くの山岳信仰がそうであるように、富士信仰も古より遠くから崇め奉る遥拝による信仰が基本であった。仏教信仰が広まり、また、修験道の行者など一部の者が登拝を行うようになり、元亀3(1572)年には角行(かくぎょう)が初めて吉田口より富士山登拝を成し遂げたと伝えられている。角行は長崎の出身、現在の岩手県平泉町の岩屋で修行中、修験道の開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)が現れ、富士山の人穴で修行をするよう示唆を受け、富士山で荒行を重ねるようになった。

 角行の教えが、後に富士信仰として江戸庶民の間で広まっていくことになるわけだが、その普及に大きな役割を果たしたのが、角行の五代目後継者、食行身禄(じきぎょう・みろく)と六代目後継者の村上光清(むらかみ・こうせい)の2人で、それぞれ身禄派、光清派と呼ばれている。角行の教えを忠実に受け継いだ光清に対し、身禄は角行の教えを発展させ、自ら富士山で断食修行をして教えを説いて亡くなったという。

 こうした身禄の過激とも言える修行が江戸大衆の心を動かし、富士講の爆発的な人気へとつながっていったのではないだろうか。身禄の教えは、職業、身分、性別による上下関係を否定し、それぞれが役割を担っているという、ある意味、市民、男女の平等をうたい、自身の徳を積むことが一番大切であると説くものであった。当時としては先進的な考え方であったことから、士農工商による身分制度によって世の中を統治していた江戸幕府、さらに伝統的な宗教界からは歓迎されざる側面があった。

「集団化してみだりに宗教活動を行うことを禁じた」

 富士講と名指しされた禁令が最初に出た寛政7(1795)年の3年前、寛政4(1792)年にはロシア使節ラクスマンが、漂流した大黒屋光太夫とともに北海道・根室に来航し、松前藩を通じて幕府に通商を求めており、開国の波が幕府に押し寄せる前夜とも言える時代であった。幕府は、寛政7(1795)年から嘉永2(1849)年までに計8回にわたり、富士講と明記した禁令を出している。世の中は明治維新に向けて動き始め、政治的にも社会的にも混迷を増しつつあった。そうした時代にあって権力者が、人心に影響する民衆信仰に神経をとがらせるのは当然といえば当然のことであった。

 国文学者で富士講について詳しい獨協大学特任教授の城崎陽子氏は、富士講禁令について「江戸幕府は、富士信仰を禁じたわけではなく、集団化してみだりに宗教活動を行うことを禁じたというべきでしょう。取り締まり自体はそれほど厳しくなかったようです。俗体にも関わらず、山伏に扮し、鈴をならし、集団化して唱えごとをする行為が禁じられたのです。禁令によって、富士講の人々が幕府に捕らえられたとか、刑罰を科せられたということはなかったようです」としている。江戸時代後期、幕府の目が光る中でも富士講は庶民パワーによって普及し、江戸の町だけでなく関東を中心に各地で活動が行われた。しかし、明治維新を迎え、新政府によって新しい国家体制が整えられると富士講を取り巻く環境は大きく変化していった。

1/2ページ

最終更新:10/2(火) 16:15
THE PAGE

あなたにおすすめの記事

Yahoo!ニュースからのお知らせ