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<止まった刻 検証・大川小事故>第1部 葛藤(3)波頭を目撃 山駆け上がる

1/14(日) 10:45配信

河北新報

 東日本大震災の津波で全校児童108人中、70人が死亡、4人が行方不明となり、児童を保護していた教職員10人が亡くなった宮城県石巻市大川小。戦後最悪の学校管理下の事故を巡る仙台高裁判決が今春にも言い渡される。あの時、大川小で何があったのか-。7年近くたつ今、当時の子どもたちや関係者が重い口を開き始めた。第1部は当事者の証言などから、学校にいた教職員11人中、唯一助かった当時教務主任の男性教諭(56)の「3.11」を追う。(大川小事故取材班)

【忘れないあの日】石巻市立大川小学校周辺の沼で行方不明者の捜索をする警察官

◎教務主任の3.11

 石巻市大川小の男性教務主任(56)は「せめて一番高い校舎2階に避難場所を探す」として、校舎内に入った。全校児童108人中、74人が津波の犠牲となり、教職員10人が亡くなる惨事を、この時、どこまで予見していただろうか。

 1985年3月に完成した大川小は、屋上がないモダンなデザインが評判だった。実は2階の配膳室にあるメンテナンス用のはしごを使えば屋根に上がれる。天井の扉は閉まっており、鍵は1階の職員室に散乱していた。教務主任は「屋上避難」を諦めた。

 教務主任が校舎内にいるとき、児童らの命運を左右する重大な決断が下される。北上川右岸の堤防道路(三角地帯)への移動だ。三角地帯は学校より5~6メートル高いが、防災無線が「絶対近づかないで」と繰り返していた堤防だ。

 午後3時30~35分ごろ、教頭らが「三角地帯へ逃げるから、走らず列を作って行きましょう」と呼び掛けた。区長は「三角地帯に行こう」と主張しており、相談して決めたとみられる。

 当時、校長は不在。教頭に次ぐ立場だった教務主任は重大な決定に関わっていなかったことになる。2016年10月の仙台地裁判決は、1~2分で行ける裏山に避難させなかった教職員の過失を認める一方、「校舎の見回り」を理由に教務主任だけ免責した。

 校庭に戻ると、児童の列は三角地帯に向け、出発していた。「(上流の)間垣の堤防の一番高い所(三角地帯)に避難する」と住民に教えられ、教務主任は児童の列の最後尾に付いた。

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最終更新:1/14(日) 21:52
河北新報