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中卒で上京…船木誠勝の原点は母がくれた3万円と親父への反発心

2/13(火) 9:26配信

日刊ゲンダイDIGITAL

 新日本プロレス、UWF、プロフェッショナルレスリング藤原組を経て、パンクラスを設立し活躍したプロレスラーの船木誠勝さん(48)。3年前からフリーになったが、これまで厳しいトレーニングに耐え戦ってくることができたのは、故郷・青森での貧しくつらい子供時代があったからだ。

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 中学を出てすぐに上京し、アントニオ猪木さんが立ち上げた新日本プロレスに入団しました。

 青森県弘前市で生まれ育ちましたが、小学校6年の時に父親が家を出て両親は離婚。母親が裁縫の仕事をして育ててくれました。周りには中学を出てすぐに働いている友達もいたので、オレも中学を出たら働こう、プロレスラーになろうと中学2年から思っていました。プロレスが好きだったし、砲丸投げで自分なりに鍛えていたので。

 オヤジはバスの運転手でした。ギャンブルが凄く好きで、競輪で勝って一時期は家を2軒持っていて、1軒を他人に貸すほど羽振りがよかった。でも、すぐにうまくいかなくなったんでしょうね。借金して、ギャンブルにつぎ込んで負けて、取り返そうとまた借金して……。夕方になると毎日、借金取りがウチに来ていました。母親が対応して、小学生だった自分は何もできずただ見ているしかない。貧しさより自分の無力さが悔しくてつらくて、今も思い出すほどです。

 両親が離婚してからは、母親と8歳下の妹と3人で2間のアパート暮らし。1間を自分にくれて、もう1間の居間で家族が食事して、夜は母親と妹がそこに布団を敷いて寝てました。食べるだけで精いっぱいのギリギリの生活。それなのに中学入学時には父親から「入学祝いだ」と請求書が送られてきたそうです。

 中学2年の進路指導の時に、卒業したらプロレスラーになると言ったら母親に反対されました。親戚からも反対されたけど、唯一、祖父が「決めたんだから気が済むまでやらせろ」と言ってくれた。それから新日本の入団試験を受けて、3回目で合格。当時は人気があって、何十人も応募者がいて狭き門だったんです。

 母親から3万円をもらって上京し、世田谷区上野毛の寮での生活が始まりました。8畳の部屋に2段ベッドが2つあり、4人で寝泊まり。1年間はひとりで外出禁止で、毎日トレーニングと掃除、洗濯、炊事など雑用をするだけの生活です。でも、中卒は自分だけだから、みんなかわいがってくれて楽しかったですよ。

 母親からもらった3万円には手を付けませんでした。団体から月3万円が支給され、食事は寮に付いていて、服は先輩がお下がりをくれたし。入団した次の年の3月に15歳11カ月の当時史上最年少でデビューしてからは月15万円ももらえるようになり、毎月10万円を実家に仕送りしていましたね。

 つらかったのはやはりトレーニングの厳しさ。176センチ、75キロあったけど年齢は関係なくトレーニングするので、自分にはハードで周りに全然かなわず、せめて肩を並べるくらいになりたいと必死でした。1日8時間かけて走ったり跳んだり、腹筋200回に腕立て伏せ1000回、スパーリング……。

 5キロくらいあるボールを腹の上にボン! と叩きつけて腹筋を鍛えるトレーニングでは、10回目で息ができなくなって死ぬかなと思いました。入団する時に“トレーニング中に死んでも団体は責任を負わない”という内容の契約書にサインしたので、まぁ死んだら仕方がないと思っていたんですけど。

■一度だけ会いに来たオヤジの口からは……

 活躍できるようになった22歳の時、東京の団体の事務所にオヤジが一度だけ会いに来たことがあった。厚木で一緒に飲んだけど、「興行っていくらで売ってるんだ」という話ばかり。借金をきちんと返そうという気はなく、もうひとヤマ当てたいようでした。変わってないな、考えが違うなと残念で、酔えませんでした。

 そんなオヤジでも3年前にがんで亡くなったと電話を受けた時は、トレーニングに力が入らなくて2カ月くらいボーッとしていました。そもそもプロレスを好きになったのはオヤジの影響。レスラーになって頑張ってきたのはオヤジへの反発心やオレがしっかりしないと、という気持ちだったんだなと気がつきました。

 ちょうどその頃にフリーになり、大阪でジムを始めてバタバタしていて、いつの間にかオヤジのことは考えなくなった。今は12歳の息子を一人前にすることが自分の使命だと思っています。プロレスラーになるかはわからないけど、一緒に体を鍛えていますよ(笑い)。