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沖縄から東京、アメリカへ 人生切り開いてきた民間大使、その心は「明るく前向きに」

3/12(月) 21:05配信

沖縄タイムス

 【我ら“うちなーんちゅ”米ロス発】 山内繁子さん(79)

 母を13歳の時に亡くした山内繁子さん(79)は、独立心旺盛な少女だった。現南城市出身で、戦時中は宮崎県に疎開。看護師になってからは「一度は東京に出てみたい」と思い、その夢を実現した。そして、東京の三宿病院に転職した年、新宿でばったり、沖縄の看護学校時代の先輩に出会った。

 「先輩に『せっかく東京に来たのなら東大の助産婦学校を受験してみたら』と勧められた。その気になって勤務先から10日間の休みをもらい、受験勉強に取り組んだ」

 だが、受験に必要な戸籍抄本がいつまでたっても、父から届かない。期限切れの戸籍抄本を持っていたので、それで受験させてもらえないか、と直談判に行った。

 「無事に受験することができて合格した。私が内気な性格だったら受験を諦めていたかもしれない。積極性が道を切り開いたと今でも思う」。50年以上前の出来事を振り返りながら、豪快に笑った。

 助産師の資格を得てから日立製作所の病院に転職、さらに沖縄に帰って那覇病院に勤めた。その後、親戚の紹介でハワイ出身の2世・山内ウィリアムさんと結婚するために1970年渡米した。

 「子どもの頃から漠然と、親戚の話を聞いてハワイに行きたい、世界一周もしてみたいと思っていた。それが結婚で全てかなった。TWA(米国の航空会社)勤務だった主人のおかげで、ヨーロッパに家族旅行も行けた」

 結婚後は夫の勤務先があったロサンゼルスに転居し、4人の子どもを産んだ。しばらく専業主婦だったが、工場から卸値で購入したバッグや衣料品を販売する仕事で副収入を得ていた時期もあった。

 「私が帰ってくるのを家で待っていた子どもたちが『今日はもうかった?』と楽しみに聞いてきた。生活が苦しいわけではなかったが、子どもたちに少しでもおいしいものを食べさせたいという気持ちからだった」

 育児が一段落すると、産婦人科のクリニックで働き始めた。しかし1997年、転機が訪れた。夫が交通事故で意識不明の重体となったのだ。

 「仕事を辞めて、病院と自宅を往復しながら夫の看病に専念した。あの時が一番つらかった。頼れる家族もいないし、子どもたちはまだ高校生と大学生。つらくて泣きながら運転したこともあった」

 誠心誠意の看病のかいなく、半年後に夫は帰らぬ人となった。繁子さん59歳。「実は大学生だった息子が、友人に『母を支えるために大学を辞めて働こうと思う』と相談したらしい。しかし、その友人は『お父さんがいなくなったのだから、余計に勉強を頑張って大学を卒業すべきだ。学費が必要なら援助しよう』と言ってくれたと聞いた。息子はそれで退学を踏みとどまった。私も子どもたちに『いざとなったら、お母さんが日本へ出稼ぎに行けば稼げるんだから、心配しなくていい』と言っていた」

 出稼ぎに行くこともなく、あれから20年。この間、繁子さんは所属する北米沖縄県人会、キリスト教の教会、コーラスグループのために忙しく過ごす傍ら、沖縄に帰省した際には、民間大使としての責務を全うすべく、米国の事情を紹介する講演も行ってきた。最後に健康の秘訣(ひけつ)を聞くと「タンパク質をしっかり取る。よく動く。早寝早起き」と答えた。それに加えて「くよくよ悩まず、物事をポジティブに捉えること」という繁子さんの考え方も、彼女の元気を支えているに違いない。(ロサンゼルス通信員・福田恵子)

最終更新:3/17(土) 15:25
沖縄タイムス

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