ここから本文です

お使いのInternet Explorerは古いバージョンのため、正しく表示されない可能性があります。最新のバージョンにアップデートするか、別のブラウザーからご利用ください。
Internet Explorerのアップデートについて

「がれきの写真は見飽きた」の言葉に……記者を辞め被災地の職員に 元ジャーナリストが今、伝えたいこと

3/18(日) 7:00配信

withnews

 故郷を襲った東日本大震災の後、一人の後輩ジャーナリストが新聞社を去りました。復興に寄り添うって何か? 悩んだ彼女は、身近な人の死を経験した人を支援するグリーフケアに飛び込み、今は被災地の市役所で復興に携わっています。震災から7年、「元ジャーナリスト」が今伝えたいことは何か? 話を聞きに宮城県気仙沼市を訪ねました。(朝日新聞記者・岩崎賢一)

【画像】今はもう見られない……30年前の気仙沼の風景 そして震災で変わってしまった故郷の姿

母からのメール「大丈夫じゃないよ」

 話を聞いたのは、宮城県気仙沼市役所に勤める中居慶子さん(36)です。

 震災発生当時、中居さんは朝日新聞京都総局に勤務していました。

 「東北で震度7の地震です」

 2011年3月11日、翌月にある統一地方選挙の取材を終え、総局に戻った中居さんのところに、後輩が飛んできました。

 気仙沼の海の目の前にある食品加工会社に勤める母親の携帯電話はつながりません。テレビで津波警報が伝えられる中、会社の電話にやっとつながりました。

 「出勤している人はみんな無事です。今から避難します」

 こう聞いて一安心と思っていると、母親からメールで写真が送られてきました。

 「大丈夫じゃないよ」

 建物の屋上から写した津波が街を襲う写真でした。

 その後のテレビに映し出された空撮の映像は、母が勤めていた会社がある海沿いの一帯で、火災が発生している映像でした。

 「つらかったですね。母もひとりぼっち。13日になって携帯電話がつながり、声を聞いて安心しましたが、これまで子どもの前で泣かなかった母がぼろぼろと泣いていたので精神的な面でとても心配でした」

 中居さんは、子どもの頃に父を亡くし、兄は高校卒業とともに仙台の学校に通い、就職していました。

 気仙沼に行くことができたのは、統一地方選挙が終わった後のゴールデンウィーク。1週間、震災取材として現地を歩いて感じたことがありました。

「ニュース追うマスコミでは寄り添えない」

 震災発生から1カ月半が経過し、主要な道路はがれきが取り除かれていました。

 高校時代の通学路や子ども時代に支えてくれた地域の人が暮らす商店街などを回り、知り合いの生死や避難状況を確認しながら、何を伝えればいいのか、自問自答が続いたそうです。

 「本当は母と時間を共にしたいと思いました。ジャーナリスティックでなかったかもしれないですね。4月下旬になると、何となく報道し尽くされている感があって、今まで書かれていないことを書くことが難しいなと感じてしまいました」

 当時は多くの記者が被災地に入り取材にあたりました。私も震災発生後の3月に2週間、福島で取材をしました。

 私が話を聞いた被災者の多くは、何かを伝えて欲しいと思って取材に応じてくれているものでした。それを取材として受け止めた私たち記者も、なかなか掲載に至らずジレンマを抱えていました。

 新聞のページは限られています。当時は、新聞紙の確保も厳しく、ページ数の制約もありました。

 何より、岩手県、宮城県、福島県と被災地は広範囲にわたり、多くの記者がかかわっていたため、当然、大きな被害がある地域や状況、新しいニュースが優先され、競争率が高いのは当然でした。

 ただ、中居さんが私を含め他の記者たちと決定的に違ったのは、「地元に帰って、何かしないといけない」との思いを強くしたことでした。

 中居さんは大阪に戻った後日、何げない言葉を耳にしてびっくりしたそうです。

 「もうがれきの写真は見飽きたから」

 日本中、絆や寄り添うといった言葉があふれる中、被災地と距離がある地域の人たちの本音を垣間見た瞬間でした。

 このような違和感が積み重なり、1年後、「ニュースを追っているマスコミでは、長くかかる復興に寄り添えない」と決断し、ジャーナリストを辞めました。

1/5ページ

最終更新:3/20(火) 22:50
withnews