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高畑勲監督、天国へ 宮崎駿監督とスタジオジブリ設立 5月15日にお別れの会

4/7(土) 6:04配信

スポーツ報知

 「火垂(ほた)るの墓」「平成狸合戦ぽんぽこ」など数々の名作を手がけたアニメーション映画監督の高畑勲(たかはた・いさお)さんが5日午前1時19分、肺がんのため都内の病院で死去した。82歳。所属のスタジオジブリが発表した。葬儀・告別式は近親者で行う。5月15日に、盟友・宮崎駿監督(77)、鈴木敏夫プロデューサー(69)らがお別れの会を開催する。

 宮崎監督とともに日本アニメの礎を築いたアニメ界の巨匠が、天国へと旅立った。

 高畑監督は、東大仏文科卒業後の59年に東映動画に入社。同社で宮崎監督と出会い、組合活動を共にし親しくなった。アニメ制作会社に移籍しながら、70年代にはテレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」「赤毛のアン」などを演出。「―ハイジ」では「現地の人が見ても違和感がないものを」という思いから、当時は異例の海外ロケハンを敢行するこだわりぶり。宮崎監督と違い自らは絵を描かないが、一貫してアニメーション表現の限界に挑み、日本のアニメを進化させてきた。

 84年には宮崎監督の映画「風の谷のナウシカ」をプロデュース。翌年、宮崎監督とスタジオジブリを設立し、二人三脚でヒットを生んだ。

 88年には野坂昭如さんの小説「火垂るの墓」を自身の脚本、監督で映画化。戦争の悲惨さを語りながら、耐え難い人間関係から逃れた子どもたちのたどる結末を描き、人とのつながりが希薄になった現代社会に生きる人々に問いかけた。紅花の生産風景などを緻密に描写した「おもひでぽろぽろ」や、「平成狸合戦ぽんぽこ」などの監督作品は国内外で高く評価された。

 大好きな食パンをパクパク食べる姿から、愛称は「パクさん」。高畑監督の才能を高く評価していた宮崎監督が「パクさんはナマケモノの子孫」と例えるほど遅筆なことでも知られた。13年の「かぐや姫の物語」は、当初の予定より4か月遅れで公開された。また、「お金のことは考えずに作っちゃう」と、製作費が予算を大幅にオーバーすることもあった。

 この日、鈴木氏がスタジオジブリを代表してコメント。「やりたい事がいっぱいある人だったので、さぞかし無念だと思います。宮崎駿とも相談し、ジブリとして盛大なお別れの会をとり行い、見送ることにしました」と故人を悼んだ。

 【評伝】追い求め続けた実写よりリアル

 高畑監督が生涯追い求めたのは「実写よりもリアルなアニメ」。そのために常に新たな表現に挑戦を続け、一切の妥協を許さなかった。それは時に、スケジュールの遅れや製作費の膨張にもつながったが、アニメーターにとっては高畑監督と仕事ができることは、何よりの「財産」となった。「かぐや姫の物語」の製作時には「業界でうまいと言われる描き手がみんな『かぐや姫』に集まってしまい、他の作品が人材不足になった」と言われたほどだった。

 高畑監督の最大の特徴は「アニメ監督なのに絵を描かない」こと。鈴木プロデューサーはその理由を「自分が描くと、やれる範囲で収まってしまう。他人に『描かせる』ことで、革新的なものが生まれるということでしょう」と語った。また、映像の完成前に声を収録し、それに合わせて絵を描く「プレスコ」と呼ばれる手法を取ったのも「口の動きと声がぴったり合うことで、キャラクターに命を吹き込むことができる」との考えからだった。

 盟友の宮崎監督が空想の世界を目指す一方で、地に足がついた作品を送り出したのは「消えゆく日本の風景」に危機感を抱いていたため。「かつて、日本は古いものから新しいものへの循環がうまくいっていたのに、いつの時代からかおかしくなった。古いものを尊敬し、大切にする気持ちがなくなってしまった」と危機感を抱いていた。

 「『和』を描く30分くらいのアニメを作りたいけど、できていないんですよね…」。その“夢”を実現する日は来なかった。(高柳 哲人)

 ◆高畑 勲(たかはた・いさお)1935年10月29日、三重県生まれ。東大仏文科卒業後、東映動画に入社。68年に映画「太陽の王子 ホルスの大冒険」で長編監督デビュー。「母をたずねて三千里」の演出や映画「じゃりン子チエ」を監督。98年に紫綬褒章受章。2014年には仏アヌシー国際アニメーション映画祭で名誉賞。16年に米アニー賞でウインザー・マッケイ賞を受賞。

最終更新:4/10(火) 13:21
スポーツ報知