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「友達に国境はない」をなぜ恐れるのか マルコとまる子の「福音」から考える(加藤直樹)

4/9(月) 6:06配信

アジアプレス・ネットワーク

◆新約聖書の「マルコによる福音書」

エルサレムに入城したイエス・キリストと弟子たちは、彼らを異端視するユダヤ社会の有力者たちの敵意に迎えられた。弾圧の気配に弟子たちは動揺する。元漁師で一番弟子のペテロは「私は死んでもあなたを見捨てません」と誓うが、イエスは「あなたは今夜、鶏が鳴くまでに三度、私のことを知らないと言うだろう」と予言する。

果たしてその晩、イエスは捕らわれてしまう。弟子たちはその場で散り散りに逃げてしまった。ペテロもいったんは逃げたものの、引き返して、イエスが連行された有力者の邸宅の庭で、群衆の中に身を潜め、震えながら様子をうかがっていた。

そのとき、その場にいた有力者の従者たちがペテロに気づき、次々と、「この人はイエスの仲間だ。一緒にいるのを見た」と指さす。ペテロは震え上がり、繰り返しそれを否定し、最後には追い詰められて「本当に違う。誓ってもいい」とまで断言する。その次の瞬間、闇の向こうから鶏の声が聞こえてくるのである。

イエスの予言通りに師を裏切ってしまったことに気がついたペテロは、その場から走り去る。「いつまでも涙が止まらなかった」と「マルコによる福音書」は伝えている。

聖書のこの場面を読むと、私はいつも、ペテロの悲しみに胸が締め付けられる思いがする。同時に、その自分の思い自体の不思議を考える。ペテロなる人物は2000年も前の、しかも遠い異国の人だ。もちろん、会ったこともない。にもかかわらず、彼がある晩に経験した出来事に、心を動かされているのである。

遠く隔たった誰かの思いに、別の誰かが共感し得るのは、人間それぞれが、大きく異なる運命を生きながら、一方で人間としての普遍性を共有しているからだ。大昔に遠くの国々で書かれた古典が今も私たちに感動を与えるのは、そこに人間の普遍的な姿が描かれているからだ。映画ファンであれば、アメリカ映画はもちろん、フィンランドやロシア、イラン、タイといったよく知らない国の映画に心を揺さぶられたことがあるだろう。

人間は国境を越えた普遍性をもつ。ゆえに国境を越え、言語を超えて、誰かに共感することができる。その共感を互いに抱けば、彼らは当然、「友達」になるだろう。人間が国境を越えた存在だからこそ、そうしたことが起きる。

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