ここから本文です

お使いのInternet Explorerは古いバージョンのため、正しく表示されない可能性があります。最新のバージョンにアップデートするか、別のブラウザーからご利用ください。
Internet Explorerのアップデートについて

【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】遠江三郡乱入(掛川市) 茶々丸擁護の原氏討伐

4/15(日) 7:55配信

産経新聞

 明応2(1493)年10月、伊勢宗瑞(北条早雲)の「伊豆乱入」(伊豆討ち入りとも称す)は、将軍の義材を廃して義澄を新将軍に擁立した管領・細川政元のクーデターと連動し、今川氏親と早雲らが支援した幕府内の権力抗争が背景にあった。前将軍・義材を推す堀越公方(伊豆の国市)の足利茶々丸を急襲するが、取り逃がしてしまい乱入は長期化した。

 伊豆では反対勢力もあり、これから激甚化する中、早雲は翌明応3年8月に今川軍を率いて「遠江三郡乱入」という掛川市周辺の中遠地域に攻め込んだ。標的は茶々丸を擁護する管領の遠江守護・斯波氏配下の高藤城(掛川市本郷)の原氏討伐である。

 この乱入を具に見ていた高山円通院(掛川市原田郷)の松堂高盛が記した『円通松堂禅師語録』に詳しく、「平氏早雲者、引率数千、乱入当州三郡、推落高城(高藤城)、殺戮(さつりく)官軍…」とあり、高藤城は落城して、多くの領民が討たれたとされる。

 ところが、近年の史料分析から、原氏と一門は明応6年頃までゲリラ的な抵抗を続けていたことが分かった。さらに、他の史料には「遠州の儀、故なく駿州今川方共望、…被官人不慮の取り合い」とある。

 今川軍の侵入に伴う混乱の中、当該の国衆たちがお互いに争ったことで、これを好機と見た氏親は明応5年、遠江へ侵攻した。横岡城(島田市)の鶴見氏、松葉城(掛川市)の川井(河合)氏、倉真城(掛川市)の松浦氏らを攻めた。『掛川誌稿』には「多数の敵に囲まれ、城中に全員自刀す」などの出典があり、今川氏の軍門に降ったとされる。

 この早雲による遠江三郡乱入は、京都で勃発した応仁・文明の乱で、東軍の細川勝元と今川氏、それに対する西軍の山名宗全と斯波氏との熾烈(しれつ)な戦いが根底にあったことは余り知られていない。今川氏の斯波氏領であった遠江平定は、義忠・氏親二代による旧領奪還はなんと45年間に及んだ歴史観が、ここにも凝縮されていた。 (静岡古城研究会会長水野茂)

最終更新:4/15(日) 7:55
産経新聞