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国籍の溝訴えた手紙と奇跡 <忘れられた皇軍兵と野中広務>

4/15(日) 17:30配信

京都新聞

 92歳で亡くなった元自民党幹事長の野中広務氏は、政敵をたたきつぶす「冷酷さ」と弱者への限りない「優しさ」があった、と評される。日本軍人として戦争に行きシベリアに抑留されながら、日本からも韓国からも補償を受けられなかった在日韓国人の「忘れられた皇軍兵」に差し伸べた手は、「優しさ」だった。その源流は、どこにあるのだろうか。(年齢、組織名は当時)
 ■官房長官に娘ら訴え
 国を相手に恩給支給を求めた李昌錫(イチャンスク)さん(72)は、京都地裁で1998年3月に敗訴したあと、急激に体調が崩れた。
 朝の日課だったコーヒーを淹(い)れられない。集合住宅の5階ベランダで隣室との仕切りを蹴破る。衣服やタオルを体に巻き付ける。何かが見え、身を守ろうとしているように長女泰恵さん(24)の目には映った。
 幻視症状を伴う認知症と診断され、同年7月に入院した。「貧しいなか必死に暮らしを支えてきた。子ども3人も大きくなり、最後に自分の願いをかなえたいと提訴した。敗訴は人生終わったぐらいに思えたでしょう」と泰恵さんは語る。
 李さんの願いは、ささやかだった。「日本軍に従事した者として日本人と平等に扱ってほしい」。戦後、京都府や自宅のある久御山町に何度も恩給申請を試みた。しかし申請すらなかなか応じてもらえなかった。
 「壁」は国籍だった。恩給法には、日本国籍を失った者は支給対象外とする「国籍条項」がある。国は、李さんがこれに該当すると主張した。
 李さんの国籍は個人の意思とは無関係に時代の流れに翻弄(ほんろう)されてきた。
 植民地下の韓国で生まれた。親から授かった名前は使えず、「小林勇夫」になった。44年に入隊した。「天皇陛下のためなら死んでもいい」。そんな思いだった。敗戦後、シベリアに8年間抑留され、53年12月に舞鶴に28歳で引き揚げた。このとき、朝鮮の独立を認めたサンフランシスコ平和条約によって、日本人ではなくなっていた。
 李さんの体調と同じように、大阪高裁での控訴審も思わしくなかった。
 支援者の田川明子さん(54)は危機感を抱いていた。99年夏、宇治市の自宅で偶然、官房長官の野中広務氏(73)が発言するNHKテレビを目にした。南京大虐殺はないという意見に認識が浅すぎると語る内容だったと記憶している。その夜、誰にも相談せず、全く面識のない野中氏に手紙を書いた。李さんの境遇と連絡先を記し、泰恵さんが父から生い立ちを聞き取った冊子「李昌錫物語―明日への伝言」を同封した。
 しばらくたって、自宅の電話が鳴った。受話器を取った夫が戸惑っている。「どちらの野中さんでしょうか」
 「国務大臣の野中です」
 田川さんは跳び上がるような思いがした。代わると、甲高い声がした。「ぜひ話を聞かせてほしい」。奇跡だと感じた。
 99年8月1日、京都市南区の新・都ホテル。日曜のロビーは結婚式の参列者で華やいでいた。田川さんと泰恵さんが緊張して待っていると、背広姿の野中氏がエレベーターで降りてきた。「お待たせしました」。上階に上がると、廊下に体の大きなSP(警護官)が2人立っていた。
 部屋の中で、野中氏はテーブルを挟んで田川さん、泰恵さんと向き合った。手には郵送した「李昌錫物語」。表紙がくたびれていた。目を通した証しだった。泰恵さんは用意した手紙を読み始める。入院中の父を代弁する覚悟だった。
 「戦後という時代が流れていくなか、国籍という引かれた線の溝に、すっぽりはまって誰にも気づいてもらえなかった父が提訴という形で世間にやっと気づいてもらえました。父は『見えない人』から『見える人』になりました」
 野中氏は黙って耳を傾けていた。
 「けれど、今なお父は、その引かれた線の溝にはまっています。一刻も早くその深い溝から父を救い上げてほしいです。そして、その線の内側へ父を導いてほしいです」
 野中氏は、李さんと同じ25年10月生まれ。45年に召集され、終戦を高知の部隊で迎えた。李さんと人生を重ね合わせるように「自分も終戦が1年違っていたらどうなっていたか分からない」と話し、自分にも娘がいると明かした。
 帰り際、野中氏は背広の内ポケットから茶封筒を取りだして渡した。田川さんには思いも及ばないものが入っていた。(2回続きの1回目)
 ■戦後補償、前向きな対処指示
 戦後、旧植民地出身の軍人、軍属は補償を受けられない「溝」に陥っていた。日本からは「解決済み」、韓国からは「日本の問題」とされたためだ。外国人元兵士にも年金や一時金を支給していた米国、英国、フランス、イタリア、西ドイツとは差があった。
 この問題は、1963年に故大島渚監督がテレビドキュメンタリー「忘れられた皇軍」で取り上げた。94年には与党3党が設置した「戦後50年問題プロジェクト」で議論されたが、解決には至らなかった。
 ところが、戦後54年に当たる99年、旧植民地出身の軍人、軍属の補償問題が再び注目を集める。そのきっかけは、官房長官だった野中氏の国会答弁だった。
 同年3月9日の衆院内閣委員会。公明、民主両党の議員が、在日韓国人の戦傷病者らによる国籍条項を巡る訴訟で東京高裁が国側勝訴の判決を示しながら「行政上の特別措置を採ることが強く望まれる」などと付言したことに対し、政府見解をただした。外務省、総務庁、厚生省側は「日韓両国間で法的には完全かつ最終的に解決」との公式見解に沿った答弁を繰り返した。そんななか、野中氏だけが踏み込む。
 「裁判所の御提起も考えますときに、今までの経過は経過としても人道的、国際的な戦後処理の問題を1900年代を締めくくる年において考えるべきではなかろうかと考え、内閣においても前向きに対処する協議をやっていきたい」
 司法が投げたボールに行政府が反応した形で、懸案に決着をつけるという決意がにじんだ。このあと、野中氏が内閣外政審議室に指示し、救済法案の整備に向けて動きだした。

最終更新:4/15(日) 17:30
京都新聞