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ひそかに贈った感謝状 <忘れられた皇軍兵と野中広務>

4/16(月) 18:30配信

京都新聞

 92歳で亡くなった元自民党幹事長の野中広務氏は、政敵をたたきつぶす「冷酷さ」と弱者への限りない「優しさ」があった、と評される。日本軍人として戦争に行きシベリアに抑留されながら、日本からも韓国からも補償を受けられなかった在日韓国人の「忘れられた皇軍兵」に差し伸べた手は、「優しさ」だった。その源流は、どこにあるのだろうか。(年齢、組織名は当時)
 ■茶封筒には100万円
 官房長官の野中広務氏(73)が渡した茶封筒には100万円が入っていた。
 1999年8月1日、京都市南区の新・都ホテルで面会を終えたあと、李昌錫(イチャンスク)さん(73)の長女泰恵さん(25)と支援者の田川明子さん(54)は京都駅の喫茶店で現金に気付いた。「どういうことですか。お返ししたい」と野中氏の事務所に連絡した。秘書は「野中の気持ちですから。お納めいただいたらどうでしょうか」と話した。
 翌2日の参院国旗国歌特別委員会。野中氏は、旧植民地出身の在日日本軍人らの救済について問われ、答弁に立つ。「この人たちが置かれておられる立場を考えますときに、この20世紀末に解決すべき重大な課題の一つ。われわれ政治が決断をするべき問題」
 なぜ野中氏は面識のない人に電話してまで会ったのだろうか。田川さんは、「法律を作る段階で全く知らないケース。教えてほしい」と野中氏が話したことを記憶している。90年代は、旧植民地出身の在日日本軍人らが補償を求め、相次いで提訴した。大半の原告が腕や足などを失った重度戦傷者で、大きな後遺症のない李さんはまれだった。
 内閣改造によって野中氏が同年10月、官房長官の職を離れた後も国会で議論が重ねられ、たびたび野中氏の発言が引き合いに出された。2000年5月、与党の議員立法によって弔慰金支給法が成立した。人道的精神から遺族に弔慰金260万円、重度戦傷病者に見舞金200万円と老後生活設計支援特別給付金200万円を払う内容だった。
 李さんは再び「忘れられた皇軍兵」となった。対象が重度戦傷病者と戦死者に限られたからだ。ただ、国会の審議過程で、李さんは「見える人」だった。
 与党法案と野党の対案の審議が大詰めを迎えた同月17日の衆院内閣委。民主党議員は、植民地出身の元軍人、軍属3人の名前を挙げ、窮状を訴えた。その1人が李さんだった。しかし、両法案とも、そもそも李さんの救済策にはなっていなかった。
 「この法律では救われません」。田川さんは再び、野中氏に連絡した。この頃、ふらりと事務所を訪ねることがよくあった。野中氏から説明を受けたが、よく理解できなかった。ただ、自民党幹事長の野中氏と議論する気にはなれなかった。
 法成立から1年後の01年5月、李さんは自発呼吸が困難になり、延命措置に入った。「もうあきません」。田川さんは再び、野中氏に電話した。
 7月9日の新・都ホテル。野中氏は「お二人ですか」と確認し、泰恵さんと田川さんを部屋に招き入れた。感謝状と桐(キリ)文様の銀杯、茶封筒に入れた現金200万円を用意していた。計300万円になった現金は、対象を外れた弔慰金支給法にほぼ見合う額だった。
 野中氏は、感謝状を読み始めた。「あなたは過ぐる大戦において日本軍人として参加し戦後シベリア凍土に多年にわたり耐え難い抑留生活を強いられ舞鶴港に引揚げられてからも半世紀にわたり軍人としての栄誉と処遇を受けられることなく耐え難い人生を刻んでこられました」。室内に声が響く。「ここに長年にわたるあなたの御(ご)労苦に深甚の謝意を表し……」
 宛名は「小林勇夫」、李さんの日本名だった。日付は最初に面会した2年前の8月1日、送り主は当時の肩書である官房長官になっていた。
 「やっと実現したこの日の報告を早速、父に致しました。毎日でも語りかけてあげようと思います。きっと父には伝わると思います」。泰恵さんはその日、お礼の手紙を書いた。「感謝状は父の存在を証明するものであり、これによって父の名誉は守られました。父の人生を労(ねぎら)うお言葉は父の心をどんなに癒やしてくれるでしょう」
 約2カ月半後、李さんは息を引き取った。75歳。葬儀の際、遺影のそばには、感謝状が並べられた。(2回続きの2回目)
 ■「安倍一強時代」に問う政治家の信念
 戦後補償を巡るエピソードは、野中氏が52年にわたる政治家人生で関わった清濁含む多くの出来事の一つであり、しかも断面に過ぎない。でも、そこからは本人が挙げる政治家としての二つの原点が見える。
 その一つは「地方議員からの積み上げ」。その意味は「地元の人々と一緒に暮らし、考え、苦しみ、そして喜んでほしいと思う。そうすることで国の姿もよく見えてくる」(著書「老兵は死なず」)ということだ。自ら電話してまで李さんの家族らの思いに耳を傾け、行動した姿と重なる。
 もう一つは「戦争体験」。天皇陛下のために死ぬことを誉れと当然に考え、少年期に兵器工場で働く朝鮮人労働者を目の当たりにしたことが恒久平和、東アジア和平を希求する力になっている。「一色に束ねられた組織は、必ず間違いを起こす。迎合しては駄目だ。自分の頭で考えなければ」と著書「私は闘う」に記す。
 その言葉を裏付ける行動は多数ある。米中枢同時テロの際、自衛隊の海外派遣に道を開く重要法案「テロ対策特措法」を巡り起立採決に異議を唱えた退席(2001年)、沖縄の駐留軍用地特措法改正に絡む委員長報告で「今回の審議がどうぞ再び大政翼賛会のような形にならないように」と述べた発言(1997年)…。植民地時代の補償問題は解決済みとの公式答弁が繰り返されるなか、救済にかじを切ったケースも同じ文脈にある。
 権力の真ん中にいて、時に権力と対峙(たいじ)してでも貫く信念があるのか-。野中氏の言動を振り返ると、「安倍一強時代」の政治家に、そう問うているように思える。
 ・弔慰金や見舞金などの支給実績 2001年4月から3年間、申請を受け付けた。政府は当初、2440件(64億円)の支給を見込んだが、414件(11億1千万円)にとどまった。総務省は理由に遺族らの高齢化による死亡などを挙げるが、正確な分析は不可能としている。

最終更新:4/16(月) 18:45
京都新聞