ここから本文です

お使いのInternet Explorerは古いバージョンのため、正しく表示されない可能性があります。最新のバージョンにアップデートするか、別のブラウザーからご利用ください。
Internet Explorerのアップデートについて

勝海舟 幕府の海軍でなく、日本の海軍「神戸海軍操練所」を作った深謀

4/16(月) 15:02配信

ニュースソクラ

『勝海舟 歴史を動かす交渉力』(草思社)の著者がみた海舟の魅力(3)

 政界に離合集散はつきものだ。一強多弱の現状は離合集散の結果だろう。巨大与党に対抗する「オリーブの木」のような政党連合構想も浮上しては消える。「小異を残して大同につく」のは簡単ではないが、ときには捨て石になるのを覚悟で、「排除」の理屈などこねず、大きな器をつくることも求められる。そうしたときに歴史の歯車は動く。

           ※

 幕末、維新の動乱期、勝海舟は、身分制度や鎖国政策に縛られた旧体制を乗り越えようと壮大な連合構想を立てた。よりどころは、長崎の伝習所でオランダ人に手ほどきをうけ、やっと乗りこなせるようになった洋式軍艦である。

 海舟は、苦心惨憺の末に咸臨丸で太平洋を渡り、アメリカの文明に触れて、幕府や諸藩の垣根をこえた軍艦の受け皿(=近代海軍)の必要性を痛感した。尊王攘夷だ、佐幕だ、と内輪で争っていては国力が高まらない。そこで、幕府と薩摩、長州などを束ねる「神戸海軍操練所」を立案する。江戸の幕府方の軍艦操練所とは別に「一大共有の海局」を構想した。

 操練所の開設に向けて奔走したのは、海舟に弟子入りした坂本龍馬だった。龍馬は、越前福井藩主の松平春嶽のもとへ運営資金の出資を請いに行く。

 その途上、胸を躍らせて姉に手紙を書き送った。

 「この頃は天下無二の軍学者、勝麟太郎という大先生の門人となり、ことのほかかわいがられ候て、まず客分のようなものになり申候。近きうちには大坂より十里あまりの地にて、兵庫というところにておおきに海軍を教え候ところをこしらえ、また四十間、五十間もある船をこしらえ、弟子どもにも四五百人も諸方よりあつまり候こと(略)。ときどき船乗のけいこもいたし、稽古船の蒸気船をもって、近々のうち土佐の方へも参り申し候……」

 越前に着いた龍馬は、春嶽と面談し、5000両もの大金を引き出す。幕府の神戸操練所への手当は年間3000両だから春嶽の龍馬への信頼がいかに厚かったか想像がつく。「人たらし」坂本龍馬の面目躍如である。

----------------------------

『勝海舟 歴史を動かす交渉術』から一部抜粋 第三章「薩長同盟へ」 小節「日本を今一度せんたくいたし申候」から

 勝は、神戸の海を眺めながら、ここに海軍操練所をこしらえたいと将軍に語りかけた。(中略)
「なぜ江戸とは別に海軍が必要なのか」と将軍(14代将軍家茂)は問う。
「恐れながら、江戸は徳川幕府の海軍でございます。神戸の海軍は、幕府と朝廷、薩摩、長州、土佐ほかの雄藩をも合わせた『一大共有之海局』。諸藩が所有する船や人も、身分によらず、神戸に集結させ、日本全体で共有いたします。日本を束ねる海軍、それが神戸海軍操練所でございまする」
----------------------------

 1864(元治元)年5月、海軍士官の養成と軍艦建造を目的として、神戸海軍操練所が開かれた。海舟は、幕府の軍艦奉行に就任する。神戸には紀州藩士の陸奥宗光や、薩摩出身の伊東祐亨ら有望な若手が各地から集まった。陸奥は龍馬の磁力に引かれて神戸操練所に入り、秘書的な実務をこなす。伊東は神戸で航海術を身につける。

 磨けば光る原石がごろごろいたわけだが、なかには討幕に燃える若者もいた。海舟は、幕府への反感を「小異」で残しても、近代海軍の創設という「大同」につけるとみていた。しかし、現実はもっと過激だった。土佐藩士、望月亀弥太が操練所瓦解の引き金をひく。

 軍艦の操船を学んでいた望月は、藩からの帰国命令に逆らって脱藩する。京都の長州藩邸に潜伏し、尊攘激派と交わった。そして新撰組が尊攘激派を襲う池田屋事件に巻き込まれる。池田屋を脱出した望月は、幕府方の兵に囲まれて重傷を負い、長州藩邸の近くで自刃した。

 望月が池田屋事件に関与していた事実が明らかになると、幕閣は海舟批判を強めた。

 「神戸操練所は討幕派の巣窟である。勝は薩摩、長州の手先に違いない」

 幕府は海舟を危険人物視し、帰還命令を出す。「切腹もありうる」と噂された。海舟は、坂本龍馬と操練所や私塾の弟子たちの身柄を西郷隆盛に託し、江戸に戻る。

 同年十一月、海舟は軍艦奉行を罷免され、寄合い入りの沙汰をうけた。働き盛りの42歳で無役となり、閑居に追い込まれる。それから2年ちかく、干された。

 坂本龍馬は、師と仰ぐ海舟が要職から外されたのを知り、幕府もここまでと見限った。神戸での経験を活かして「亀山社中」を結成し、薩摩と長州の手を握らせようと動く。龍馬の尽力で「薩長同盟」が結ばれ、時勢は討幕へと加速していった。

 後年、神戸操練所で学んだ陸奥は、明治新政府に入り、イギリス留学を通して西洋近代社会の諸制度を吸収。外交面で辣腕を揮い、日清戦争のシナリオを描いた。伊東も維新後は海軍武官のコースを歩み、日清戦争で初代の連合艦隊司令長官に就く。

 日清開戦に際して、海舟と陸奥は激しく対立したと伝わるが、たとえ政治的立場を異にしても話し合うパイプは残されていた。大連合の遺産といえるだろう。

 海舟は、晩年、こう語っている。

 「おれも最初から、(神戸海軍操練所は)とうてい永続きはすまい、必ず何か故障が起るであろうとは思っていたけれども、将来のために先鞭をつけておく考えでやりかけたのだ。それゆえ前に見せた(神戸操練所の開設意義を記した)碑文を石に刻んで、土中へ埋めておく考えでいたところへ例の譴責を喰ったから、生島(四郎・神戸の豪商で協力者)にどこへでも埋めておけといいつけたままで江戸へ帰った……」(『氷川清和』)

 まさに歴史を動かす「捨て石」を、海舟は神戸に残したのだった。

『勝海舟 歴史を動かす交渉力』(山岡淳一郎著、草思社、1728円)は3月26日に出版されました。

■山岡淳一郎(作家) 1959年愛媛県生まれ。作家。「人と時代」「21世紀の公と私」をテーマに近現代史、政治、経済、医療など旺盛に執筆。時事番組の司会、コメンテーターも務める。著書は、『後藤新平 日本の羅針盤となった男』『田中角栄の資源戦争』(草思社)、『気骨 経営者 土光敏夫の闘い』(平凡社)、『逆境を越えて 宅急便の父 小倉昌男伝』(KADOKAWA)、『原発と権力』『長生きしても報われない社会 在宅医療・介護の真実』(ちくま新書)ほか多数

最終更新:4/16(月) 15:02
ニュースソクラ