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プロみたいなチームやったね/香川伸行12

4/17(火) 6:01配信

日刊スポーツ

 浪商の香川は甲子園の舞台で春夏合わせて5本塁打をかっ飛ばした。1979年(昭54)夏の甲子園で史上初の3試合連続本塁打。その後、3戦連発は清原和博ら6人(センバツでは2人)がマークしたが、今も抜かれていない。急逝する前年の13年12月本紙の取材で当時を振り返っている。

【写真】11年11月、OB球宴戦に出場した香川さん

 香川 浪商いうチームはバラバラでした。でもいざ試合になると一丸になった。プロみたいなチームやったね。ほんま甲子園ってとこは不思議なとこですわ。自分にない力が出るし、持ってる力が出ない。でも今思えば負けて良かった。ずっと順風満帆にきていたから。高校野球がなかったら自分はなかったと思うわ。

 また連日のように体格について質問を浴びた球児は異例で「ぼくは投手だけでなく『体重』とも戦ってきたんやで」と本音を明かした。プロ入り後は球団事務所に「自分の子供がいつも学校で『デブ』といじめられてるが、香川さんが頑張ってる姿に勇気づけられています。今日も学校に行きました」という趣旨の手紙や電話が殺到。そこで母サダ子が「全国肥満児をもつ母の会」の名誉顧問に就任。ドカベンは肥満児の星でもあったのだ。

 高校通算は41本塁打(高1で14本、高2で14本、高3で13本)。当時と試合数も違うが、今回、複数関係者の取材を集約すると「(通算107本塁打の早実)清宮より上」との声が圧倒的だった。バッテリーを組んだ牛島は約40年前の青春時代を懐かしんだ。

 牛島 ぼくらは大阪でしたが、甲子園は近くて遠い存在でした。1つ勝つのがしんどかったですからね。高校野球にはいろんなことを勉強させてもらった。自分が高3までにどれだけ成長したかは自分で分かるじゃないですか。そう考えると、ライバルってのはすごいなと思いました。1つだけ言えるのは、いいライバルだったんだと思います。

 浪商と高校野球の関わりは古くから続いている。創部は1924年(大13)、2年後に大阪代表として第12回全国中等学校優勝大会(現在の夏の選手権大会)に初出場。春夏合わせて32度(センバツが19度、夏13度)甲子園出場。そのうち優勝はセンバツと夏に2度ずつの4度、準優勝はセンバツに3度ある。浪商の野球史は大阪の高校野球史だったといえる。

 当時の浪商を率いた監督は広瀬吉治だった。46年、戦後初の夏の大会で、浪華商(浪商の前身)捕手として平古場昭二とバッテリーを組んで全国制覇。法大でも優勝、監督としては53年洲本(兵庫)でセンバツ優勝。68年から母校の監督に就き、数多くの名選手を輩出した。

 広瀬 私は選手のときに「温室の花ではだめだ。月を仰ぎ、ヘドを吐くほど、風に当たり、雨に打たれ、踏みつけられてもたくましく…」といった指導を受けてきました。監督としては「野球より人間を作れ」という教えを守ってきた。牛島は賢かった。香川はおおらかで、のびのびと育った。私は素晴らしい教え子たちに恵まれて幸せでした。

 香川が天国に旅立って3年の歳月が過ぎようとしている。広瀬の見にくくなった細い目にあふれた涙がほおをつたった。「私より先に逝くとはな…」。かつての名将は、大海原の甲子園に響いたドカベンの快音を聞くかのように、静かに耳を澄ませた。また「あの夏」がやって来る。(敬称略=おわり)【寺尾博和】

(2017年8月4日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)

最終更新:4/17(火) 9:26
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