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犠牲者数万人、済州島「4.3事件」70周年慰霊の旅~(下)

5/12(土) 12:50配信

アジアプレス・ネットワーク

朝鮮半島の西南部に浮かぶ済州島で島民数万人が虐殺された「4.3事件」から70周年を迎える今年の4月3日、現地では犠牲者の追悼式が営まれ、大阪からも「70周年慰霊の旅」一行100人が参列した。事件の犠牲者の遺族だけでなく、初めて里帰りを果たす「朝鮮籍」の在日の人たちや、北朝鮮のスパイにでっち上げられた元良心囚など、様々な人々が「慰霊団」に参加し、当時の悲劇に思いを馳せた。(矢野宏/新聞うずみ火)

◆スパイ決めつけ弾圧

韓国留学中の1975年に北朝鮮スパイとして国家保安法違反罪などで起訴されて死刑判決が確定し、その後減刑、釈放された「在日韓国良心囚同友会」会長の李哲(イ・チョル)さん(68)=大阪市生野区。2015年11月に再審で無罪を獲得した李さんにとって、今回が初めての済州島訪問であり、初めての4.3慰霊祭への参列だった。

「殺戮があった現場などを訪ねて、事件についていかに知らなかったか思い知らされました。現場を訪ね、解説を聞くたびに深刻な心情になり、その悲劇を頭の中で理解するのではなく、皮膚で感じるように変わってきたように思います。済州島は島全体が虐殺の地であり、墓場でした。この場に来ないと感じられなかったこと。来てよかったと思う」

李さんは、熊本県生まれの在日韓国人2世。日本の大学を卒業後、韓国の高麗大大学院で政治や外交を学んでいた1975年12月、当時の韓国中央情報部(KCIA、現・国家情報院)に連行された。「北朝鮮に2度訪問して指令を受け、韓国でスパイ活動をした」という全く身に覚えのない容疑だった。当時27歳。韓国で出会った2歳年下の婚約者との挙式を1カ月後に控えていた。

「70年代、当時の韓国軍事政権は社会に恐怖心をあおることで政権維持を図るため、在日留学生によるスパイ事件をでっち上げてきました。『学生らの韓国民主化運動は北朝鮮のスパイが操っている』という嘘のキャンペーンを狙ったのです。刑務所へ送られた在日留学生は百数十人に上り、拷問によって罪をでっち上げられ、死刑判決7人をはじめ、無期、15年刑などの重刑を受け、長い獄中生活を強いられたのです」

李さんも令状なしに40日間監禁され、こん棒でめった打ちされるなどの拷問を受けた。強要された虚偽の「自白」で嫌疑自体がねつ造され、77年に死刑判決が確定する。

「いつ執行されるかわからない恐怖心と向き合う日々の中で、食事をするのもトイレに行くのも手錠をされたまま。ある日、処刑場の掃除をする係の受刑者が来て言うのです。『あなたの名前が書かれた棺桶があった』と」

その後、減刑されるが、88年に釈放されるまで、過酷な獄中生活は13年にも及んだ。李さんは翌89年に帰国。同じ体験を余儀なくされた関西の同胞とともに「在日韓国良心囚同友会」を立ち上げ、代表として獄中にある在日らの救援活動に奔走した。

桜が咲き誇る「済州4.3平和公園」の一角に、共同墓地のように犠牲者の名前を刻んだ石碑が延々と並んでいた。予備検束によって犠牲になった、今も行方不明の人びとの標石だ。そこで李さんは、刑務所から「妻と子どもに面会に来させてください」という手紙を送った人物の存在を知り、かつて死刑囚だった自分自身に重ね合わせたという。

「遺体が重ねられて埋められた写真を見て、銃殺される時の心境はどうだったのかと考え、死刑執行に脅えていた自分とダブりました。私もいよいよ執行が近いと悟ったとき、『オモニに一目会いたい』と手紙を書きました。オモニは兄と一緒に飛んできてくれましてね……」

その母はまもなく病に倒れ、息を引き取る。57歳だった。
南北首脳会談に対して、李さんは「生きているうちに見られることに感激している」と語り、こう言い添えた。

「韓国国民の長年の願いを受け、文在寅政権が忍耐強くやってきたことの結果です。朝鮮半島に平和をもたらすであろう南北会談、さらには朝米会談の立役者である文大統領と金正恩(キム・ジョンウン)委員長に拍手を送りたい。南北間の和解、ひいては平和的な統一へ向かってほしい」

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