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疎開中の学童775人が犠牲 対馬丸撃沈の慰霊碑、漂着の地・奄美に建立

5/25(金) 10:40配信

アジアプレス・ネットワーク

1944年8月22日、疎開のため沖縄から九州へ向かっていた民間船「対馬丸」が、鹿児島県のトカラ列島悪石島沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受け撃沈された。乗船者は判明しているだけで学童834人を含む1661人。犠牲者は1484人。学童も775人が亡くなったとされる。悲劇から73年になる昨年3月、対馬丸の慰霊碑が奄美大島の宇検村船越海岸に建立された。建立のために尽力した大島安徳さん(91)=宇検村船越に話を聞いた。(栗原佳子/新聞うずみ火)

◆悲劇目の当たりに

「一生の悲願でした」
大島さんはほっとした表情で振り返る。

宇検村や大和村などの海岸線に学童らの遺体が漂着しはじめたのは撃沈から1週間あまり経って。撃沈地点から奄美大島までは約150キロ。サメなどに身体の一部を食いちぎられたような遺体も少なくなかった。当時17歳の大島さんも青年団の一員として海に出た。亡きがらは砂浜などに丁重に葬ったという。

「まさに肉の海でした。私たちは強い焼酎をあおって作業にあたりました。あまりにむごく、感覚を麻痺させなければいられなかったのです」

息絶え絶えの状態で漂着した生存者もいた。奄美全体で21人。船越の集会所に運ばれた人たちも、住民の献身で徐々に生気を取り戻していった。

ところが、数日後、突然、桟橋に軍艦があらわれた。憲兵の腕章を付けた兵士が降りたち、「区長を呼び出せ」と抜刀した。そして、生存者たちを瀬戸内町古仁屋の軍司令部に引っ立てていった。

「みなさんの怯えていた姿が忘れられません。その晩、集落の全員に集合がかかりました。そこで区長から『このことを絶対口外しないように』と、憲兵からの厳命が伝えられたのです」

44年7月、サイパンが陥落。政府は老人や女性、子どもらを九州や台湾に疎開するよう命令した。すでに制海権も制空権も失われた状態での危険な航海。対馬丸撃沈は軍事機密として隠され、生存者も徹底的に沈黙を強いられた。子どもらを送り出した家族は安否を知る由もなく沖縄戦に巻き込まれた。撃沈の事実が明るみに出たのは戦後になってから。50年には遺族が初めて奄美大島を訪れ、105柱が沖縄に帰っている。

奄美大島でも、かん口令が敷かれたことも影響し、悲劇を記録した資料は限られているという。当時を知る地元の人たちも次々に鬼籍に入り、大島さんが唯一の生き証人になった。

歌人でもある大島さんは毎年8月15日、悲劇を目の当たりにした海に、鎮魂歌を記した短冊と後生花(ハイビスカス)を捧げる供養を20年間続けた。足腰が弱ったいまも「戦争のむごさ、平和の尊さを生きている限り語っていきたい」と、平和学習などの場で体験を伝えている。

念願の慰霊碑建立は村議会の全員賛成で実現した。台座には、大島さんの詠んだ追悼の一首が刻まれている。

 対馬丸 受難のみ魂ら とこしえに 祭り伝えむ 船越の浜    

(終わり)