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スタジアム、夫に会える場所 ブラジル飛行機事故遺族は

6/14(木) 8:01配信

朝日新聞デジタル

 2016年11月、ブラジルのサッカーチーム「シャペコエンセ」の選手らを乗せた飛行機が、南米コロンビアの山中に墜落した。この事故で、チームは選手19人を失った。あれから1年半。生存者や遺族に会うため、南部の町シャペコを訪れた。

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■メッシが座った席

 地元ラジオ局アナウンサーのラファエル・ヘンゼルさん(44)は、南米杯の中継のため、選手たちと同じ飛行機に搭乗していた。

 乗った飛行機は2週間ほど前、アルゼンチン代表チームを運んだばかりだった。ヘンゼルさんの席は偶然、あのメッシが座った席だった。

 「代わってくれよ」。旧知の新聞記者に頼まれ、席を代わった。それが生死を分けた。

 事故から41日後、ヘンゼルさんは実況に戻った。「集中治療室にいる時に、自分に約束したんだ。これまでと同じラファエルでいると。仕事をあきらめるなんて考えなかった」

 ある日、ある企画の誘いを受けた。「永遠のゴールの実況をしないか」。事故で出場がかなわなかった南米杯決勝の様子を、ヘンゼルさんが想像し実況するという内容だった。引き受けた。

 いつものスタジアムの中継席のいすに腰掛け、スタジアムを見渡した。ボールの動きを想像する。亡くなった選手たちのプレーが一つひとつ思い出された。ボールは途切れることなく、シャペコエンセの選手たちの間を回り、最後はネットを大きく揺らす。

 「ゴーーーーーーール」

 叫んだ。

 「私は喜びを感じさせるために、シャペコエンセの実況をしてきました。『永遠のゴール』は、心から血が流れ出るような気持ちでした」

 自分のことを「スタジアムの一部」と語るヘンゼルさんは、「私はこれまでも、これからもシャペコエンセとともにある。すべての試合を実況する」と語った。

■ママ、絶対に死なないで

 シャペコエンセの広報担当、シルリ・フレイタスさん(34)がこの仕事を始めたのは事故の直後だ。事故でチームの広報担当が亡くなった。それが夫のクレイベルソン・フェルナンドさん(当時39)だった。

 事故直後からクラブハウスに、遺族の一人として出入りしていた。「できれば手伝ってほしい」。メディアが殺到し混乱しているチームの幹部は、地元紙の元記者のフレイタスさんに助けを求めた。うちひしがれてはいたが、迷いはなかった。「夫とチームに包まれたような気持ちになりました」

 事故後の対応が落ち着くと、多くの遺族が悲劇を忘れようとしたという。だが、フレイタスさんは、より深く事故を知りたいと思うようになった。事故現場を訪ね、地元の人に当時の様子を聞き込んだ。「記者だったからでしょうか。とにかく、事故のすべてを知りたかった」

 今年4月、コロンビア政府は事故報告書を発表し、燃料不足が原因だと断定した。フレイタスさんにとって、新しい内容は何もなかった。

 「パイロット一人に責任があるわけではない。もっと大きな責任を持つ人や組織があるはずだ。それに報告書が原因を特定しても、夫がいない現実は変わらない」

 スタジアムに入るたび、夫を思い出す。観客の歓声を聞くと、チームを愛していた夫を思い出し、涙がこみ上げてくる。そんなときは、中継のラジオの音を大きくして、歓声が聞こえないようにする。

 10歳になる長男と、4歳になる長女がいる。事故当時2歳だった長女にはほとんど父親の記憶がない。長男が写真を見せ、父親の思い出を話している姿を見る。でも、それは長男自身が父親を忘れないようにしているのかもしれない。

 チームが遠征すれば、広報担当のフレイタスさんも一緒に行く。家を出るとき、長男は決まって言う。「ママ、絶対に死なないで、帰って来てね」


■悲劇が生んだ連帯

 「他のチームにすれば、うちはアマチュアに毛が生えたように見えるでしょうね」

 シャペコエンセの副会長、ネイ・マイダナさん(49)は、経営するスポーツ用品店で店番をしながら言った。「クラブの幹部と選手は友だちみたいな関係で。でも、それがうちの良さ。年俸半分でいいから残りたいって選手もいます」

 シャペコはブラジル南部サンタカタリーナ州の内陸部にある。小さな街の唯一とも言える娯楽が、シャペコエンセだ。

 1973年に設立されたクラブだが、予算もなく、一年のうち半分しか活動できない時期が続いた。選手のショーツの布当ては、マイダナさんの母がボランティアで縫い付けていた。

 万年下部リーグ。でも、シャペコで愛された。「有名チームの次に好きなチーム。それがシャペコでの位置づけでした」

 09年、クラブは存続の危機を迎えた。「誰も会長をやってくれる人がいなかったんです」。会長がいなければ、規定で出場ができない。会合を4回重ねたが、誰もなり手がいなかった。

 クラブの経営には持ち出しも多い。自分よりも資産家はたくさんいた。だが、19歳までチームでプレーし、運営にも関わっていたマイダナさんは、会長を1年間、引き受けることにした。

 自分で運営費を肩代わりもしながら、職員や選手に給料を払えるようにした。きちんとしたサッカークラブとして、通年活動できるようにするためだった。

 チームはこの年、下部リーグのセリエDで準優勝し、セリエCに上がった。「私たちの取り組みが、選手のモチベーションになったのだと思う」

 その後、12年にセリエBに、13年には最上位のセリエAへと、順調に成長を遂げた。

 強くなるにつれ、ブラジル各地にファンができるようになった。地方の小チームの成長を、多くのブラジル人が応援したのだ。

 放映権料など収入も増えた。だが、遠征などの出費も増え、財政は厳しいままだった。

 「南米杯の前に、格安のチャーター便があると紹介されたのです」。それが、事故を起こした航空会社だった。

 「事故はシャペコから、そして犠牲者の家族から、すべてを奪った」

 遺族会のファビアノ・ポルト副会長(42)は憤りを隠さない。犠牲者には、選手だけでなく、クラブの職員や記者などもいた。遺族会では、事故で家族を失った48世帯の生活支援などに取り組んでいる。

 財源は、シャペコエンセの親善試合での収入や、スポンサーや一般市民から募った寄付だ。

 「サッカーを通じて、このような協力や連帯が生まれるのはブラジル史上初めてのことです」。サッカー文化が専門のサンパウロ大学のバウデニル・カウダス教授は言う。

 もし、有名チームでこのような事故が起きても、支え合いは生まれなかったのではないかと考える。「ブラジルのサッカーはライバル意識がとても強く、有名チームともなれば、なおさらです。でも、小さなチームから成長してきたシャペコエンセにはライバルがいなかった。だから、すべてのブラジル国民の心が純粋に動かされたのです」

 サッカー界だけでなく、多くの人たちの連帯で復活したシャペコエンセは、今季も上位リーグ、セリエAに残り、健闘している。いまやブラジル国内のどこで試合をしても、ファンがいる。サッカーを研究し、そして、こよなく愛するカウダス教授は提案する。

 「シャペコエンセは多くの人の支援があって復活した。有名チームとなった今、その利益で他の弱小チームを助けることが恩返しになるのではないでしょうか」。悲劇が生んだ連帯が、さらにつながることを願っている。(岡田玄)

朝日新聞社