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醜さ許す受け皿残して タテカン問題・木村英輝さん

6/14(木) 16:49配信

京都新聞

<京都大タテカン考 絵師 木村英輝さん(76)>

 数十年にわたり京都大の名物として吉田キャンパス周辺に並んできた学生らの「立て看板(タテカン)」はなくすべきなのか。京大が規制に乗り出して約1カ月。景観の在り方、表現や学問の自由、大学と学生との関係などさまざまな論点で議論を巻き起こしているタテカン問題について、関係者や識者に考えを聞いた。
 学生運動がまだ盛んだった1970年ごろ、京都大の西部講堂でロックライブを開くようになった。当時は「ロック=不良」という価値観だったが、ライブの開催は黙認されていた。京都は「いけずでよそ者を入れない」というややこしい顔があるけど、キャパシティー(受け皿)の広い街やと思った。
 自分が描く壁画と落書きとは裏腹な関係にある。建物の外装に描く場合、街のメインストリートに面した場所にバーンと描くこともあれば、周囲から反対されることもある。「よい景観」とは何なのか。役所が決めた美意識のような、一方的に規制された価値のように感じる。一般の人が「かっこいい」「ポップだ」と思えるアートがもっと街にあってもいい。
 京大の立て看板には、稚拙なデザインで、色も汚いような物もある。でも、それを唯一許せる場所が京大だった。文化的な豊かさとは、均質化を推し進めるのではなく、上品な物と醜い物が両方ある幅の広さだと思う。
 60年代に英国を旅して、ロンドンのハイドパークの一角で、誰もが箱の上に立ってスピーチしている姿が印象的だった。民主主義の社会なのだから、少数でも多様な意見を主張できる場があるべきだ。少しくらい醜くても、学生が多様な意見を表現する立て看板があったほうが、街として奥行きがあっていいと思う。
 70年代の京大は、政治的な主張の立て看板が並び、アナーキーな学生運動をしている連中もいた。自分は「おれは運動に加わらんぞ」と言いながら、彼らと普通に付き合っていた。しゃくし定規で測れない面白いやつもいるという、京大の校風は残ってほしい。
 無駄なことができる時間や空間があるのが京大の良さ。立て看板が無くなって、石垣がきれいになったから美しい、という意見には違和感がある。可能であれば、アートか落書きか何が美しいかを問うような壁画を石垣に描いてみたい。
 ■きむら・ひでき 京都市立美術大(現市立芸術大)卒。1960年代から数多くのロックライブのプロデュースを手掛け、60歳で絵師に転向。大胆な色彩とデザインの壁画を国内外の公共施設や店舗などに描いている。

 =7回続きの4回目

最終更新:6/14(木) 16:49
京都新聞