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【今こそ知りたい幕末明治】原口泉氏(63) 西郷と東湖、幼児教育で続く縁

6/15(金) 7:55配信

産経新聞

 西郷隆盛が最も尊敬し、決定的な影響を与えた人物は第11代薩摩藩主、島津斉彬である。西郷は斉彬を「お天道様のような人」と称した。斉彬の他に多大な影響を与えた人物といえば、藤田東湖が挙げられる。東湖は第9代水戸藩主、徳川斉昭の側近であった。

 西郷は東湖のことを「天下眞(まこと)に畏(おそ)るべき人物無し、たゞ其眞に畏るべきものは、東湖あるのみ」と語っている。東湖は本来は別々の言葉である「尊王」と「攘夷」を結びつけた政治思想を唱導し、全国の志士に大きな影響を与えた。江戸に上った多くの武士が、東湖の元を訪れ教えを請うており、西郷もその1人だった。

 西郷は叔父の椎原与右衛門、権兵衛両人宛に送った手紙で「東湖先生の家に参れば清水に浴したような清浄な心になる」「いつも先生に“丈夫”と呼ばれ身に余る思いだ」などと伝える。東湖によほど心酔していたことが分かる。

 東湖もまた西郷のことを気に入ったようで「他日我志を継ぐべきものは獨(ひと)り此(この)青年男児あるのみ」(川崎三郎『藤田東湖』より)と評している。

 西郷隆盛研究をライフワークとした文豪、海音寺潮五郎氏は著書『西郷隆盛』で東湖と西郷の初めて出会いを次のように描いている。

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 「東湖先生は、まッで山賊の親分のごとあるなぁ」

 この時の西郷の心理はどう解釈すべきであろう。田舎から出てきたばかりの純粋な青年である彼には、あまりにも豪放で、あまりにも雄弁である東湖に、恐怖と反(はん)撥(ぱつ)とを感じたのではないだろうか。(中略)東湖の豪放と雄弁には、反撥といってしまっては過ぎるが、なじめないものを感じただろうと、ぼくは見る。

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 確かに東湖は大変豪快で酒を好み、宴を催して西郷を接待するが、下戸の西郷は酩酊(めいてい)してしまい嘔吐(おうと)したというエピソードも残っている。

 西郷が初めて東湖と出会ったのは安政元(1854)年4月だった。それからわずか1年半後の安政2(1855)年10月、安政の大地震で東湖は圧死した。西郷も明治10(1877)年の西南戦争で亡くなる。

 それでも東湖と西郷の縁は、東湖の姪(めい)、豊田冬(1845~1941)によって「教育」という形で受け継がれた。

 東湖は10代で親を亡くした冬をたいへん可愛(かわい)がったという。冬は18歳で水戸藩士、豊田小太郎と結婚した。ところが5年後、開国論者でもあった小太郎は、京都で暗殺されてしまった。この時「冬」の名を「芙雄(ふゆ)」に変え、「男子のごとく夫の分まで生きる」と覚悟を決めたそうだ。

 寡婦となった芙雄は明治9(1876)年、東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)の付属幼稚園の開設に伴い、保母として着任した。日本における保母第1号である。

 明治12(1879)年、鹿児島に全国2番目の幼稚園(現鹿児島大学教育学部付属幼稚園)が開設された。当時、鹿児島には西南戦争により多くの孤児がいた。芙雄は園長先生として幼稚園創立の一切を任され、初めて鹿児島に赴任した。

 なぜ縁のない鹿児島に赴任する決意をしたのであろうか。芙雄は西郷が叔父の東湖を心から尊敬していたことを知っていたのだ。

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【プロフィル】原口泉

 はらぐち・いずみ 昭和22年鹿児島市生まれ。東大大学院博士課程単位取得退学後、鹿児島大法文学部人文学科教員。平成10~23年、教授を務めた。23年に志學館大人間関係学部教授に就任、翌年から鹿児島県立図書館長も務める。専門は薩摩藩の歴史。「篤姫」「あさが来た」「西郷(せご)どん」など歴史ドラマの時代考証も手掛ける。

最終更新:6/15(金) 7:55
産経新聞