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“幻の五輪代表ランナー”喜多秀喜氏の挑戦 一度は断った無名チームの監督、引き受けた理由とは

7/1(日) 9:01配信

西日本新聞

 陸上長距離界で瀬古利彦さんや宗兄弟と競い合った名ランナー、喜多秀喜さん(65)が今春、長崎県長与町の実業団「メモリード」女子陸上競技部監督に就任した。1980年のモスクワ五輪5000メートルと1万メートルでメダルが期待された幻の日本代表。指導者に転じた大学ではチームを強豪に育てた。結果にこだわってきたが、たどり着いた無名チームには違う思いがある。伝えたいのは自分も忘れかけていた「走る原点」だった。

 平和公園に近い長崎市営陸上競技場を選手が駆ける。「いいよ、その調子」。時計とフォームを交互に見る。トラック走に加えて重視するのが起伏のある丘陵でのクロスカントリー走。太ももや足首回りが強化され、故障しにくい体になる。山に囲まれた坂の町・長崎は「長距離練習に最適」と言う。

モスクワ五輪、冷戦の影響でボイコット

 佐賀県嬉野市で6人きょうだいの3番目に生まれた。小学6年で父が病死。学費を稼ごうと、毎朝6時から走って新聞を配った。高校で陸上部に入り、福岡大では油山などを連日30~40キロ走り、4年春に1万メートルの国内学生記録を塗り替えた。坂道を走り込む独自のトレーニングは、実業団の神戸製鋼所時代も続けた。

 78年、英国のマラソンで初優勝を宗猛さんと分け合い、同年の福岡国際で瀬古さんに次ぐ2位。79年の別府大分毎日は優勝した。だが、モスクワ五輪は冷戦の影響でボイコット。「無念で、むなしさだけが残った」

「走っている本人が楽しくなければ意味はない」

 その後も活躍したが五輪出場は果たせず引退し、指導者に転じた。94年に監督に就いた帝京大を98年、初めて箱根駅伝に導き、2000年には総合4位に。05年から今春の定年まで流通経済大で指揮を執った。

 昨年6月、監督就任をメモリード社長から要請された。発足4年目で、まだ無名の実業団。女子の指導経験もなく一度は断った。引き受けた理由は「未練と後悔」。結果を追い求めた監督時代、焦りから練習は理想のクロスカントリーではなく設定タイムに沿って走る方法に傾いた。成績は上がったが故障者が出た。自分も選手も、無理をした。

 坂道を駆け体得した持論を体現するチャンスをもう一度もらえた、と思う。「走っている本人が楽しくなければ意味はない。結果は、自然と付いてくるもの」。いつか長崎から世界で活躍する選手を育てたい。その先に、自分が果たせなかった五輪の切符があると信じる。

西日本新聞社

最終更新:7/1(日) 9:01
西日本新聞