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平和かみしめた「戦後初の中等野球大会」を振り返る(上)

7/9(月) 11:40配信

アジアプレス・ネットワーク

この夏、100回を迎える「全国高校野球選手権大会」は、1941年から45年は戦争のため中断、多くの元球児が戦死した。戦後初めて開かれた第28回大会で準優勝した京都二中(現・京都府立鳥羽高校)OBの黒田脩さん(88)=兵庫県西宮市=は「戦後に大会が復活して中断せずに100回大会を迎えられるのは平和だからこそ。野球ができる喜びをかみしめ、これからも1回、1回と積み重ねていってほしい」と、後輩たちへ「平和のバトン」を託す。(矢野宏/新聞うずみ火)

◆「敵性スポーツ」、戦後1年で復活

1946年8月15日、快晴。4万人の観衆をのみこんだ西宮球場。戦争で5年間途絶えていた「全国中等学校優勝野球大会」(全国高校野球選手権大会の前身)は、敗戦から1年後に復活した。甲子園球場は米軍に接収されていたため、同じ兵庫県西宮市の球場で代替開催となった。

大会第1日の第一試合、京都二中―千葉・成田中(現・成田高校)戦で、1番打者として一回表の打席に立ったのが京都二中4年で三塁手だった黒田さん。戦後初の全国大会での先頭打者として、高校野球史にその名を刻むことになる。

「たまたま運が良かっただけですわ」と黒田さんは笑う。父が営む製粉会社の野球チームの中心選手だった長兄の影響もあり、弟4人は幼くして野球好き。すぐ上の兄はプロ入りしたが、中等野球の全国大会に出場したのは脩さんだけだった。

大阪府枚方市にある旧制大阪市立中学(現・大阪市立高校)に入学したのは、太平洋戦争真っただ中の1943年4月。憧れの甲子園大会は2年前に中止されており、野球は「敵性スポーツ」とされて多くの野球部が廃部に追い込まれていた。

黒田さんは「軍国少年」だった。母も国防婦人会の中心になって戦地の兵士へ慰問袋をつくるほどの「軍国の母」だったが、父は戦争が嫌いで「この戦争は負ける。勝てるかいな」が口癖だった。そんな父に「非国民」と食ってかかったという。

45年6月の大阪大空襲で北区天満橋の自宅が全焼。製粉工場があった城東区放出(はなてん)、さらには京都府長岡京市へ疎開する。黒田さんは学校近くの寺で寝泊まりし、学徒動員で朝から陸軍禁野(きんや)火薬庫の掃除をしていた。8月15日の玉音放送も火薬庫の中で聞いた。

「何を言うてるのかわからんかったけど、日本が負けたことだけはわかった。軍事教練で学校に配属されていた将校が泣いていたわ」

戦後、矢継ぎ早に民主化政策が進められ、歩調を合わせるように野球も復活していく。占領軍(GHQ)は、野球を通じてアメリカ流の民主主義を普及させようと考えていた。(続く)

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