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【門間前日銀理事の経済診断(8)】「物価は上がらない」は、もはや社会規範

7/11(水) 13:01配信

ニュースソクラ

物価目標にとらわれるな

 日銀は、今月末の展望レポートで物価に関する議論・分析をさらに深めるようだ。物価見通しの下方修正が避けられないからである。

 生鮮食品とエネルギーを除いた消費者物価の前年比は、2017年3月をボトムに緩やかに上昇していたが、今年3月に+0.5%をつけた後は、4月+0.4%、5月+0.3%と低下している。目標の2%がはるかに遠いうえ、そこに近づいていく気配も乏しい。

 日銀はこれまでも、物価が上がりにくい理由について分析してきた。日銀の黒田総裁は6月の記者会見で、1)グローバル化の影響、2)Eコマースの影響 、3)労働供給の柔軟性、4)企業の生産性引き上げ努力、5)デフレマインドの根強さ、などに言及した。

 それぞれ一理あるが、おそらく決定的に重要なのは、「物価は上がりも下がりもしないのが当たり前」という感覚が、日本社会に生きる人々の間で広く共有されている現実だろう。

 これは、人々が弱気で「デフレマインド」にとりつかれているという話とは違う。元気な人でもゼロインフレぐらいが普通に感じる、というだけのことである。理論的には「中長期的な予想物価上昇率が低い」という整理になるが、実態的には「予想」よりも非可変的な「慣行」、「社会規範」に近い。

 社会規範だとすれば、企業がそれに従うように行動するのは当然だ。人件費等のコスト上昇圧力が高まれば、それを価格に転嫁しなくても済むよう必死に経営努力をするし、その努力に限界が来たらビジネスの縮小・転換などさらに難しい決断もする。

 価格引き上げは、社会規範に従わなくても十分な正当性があると判断できる例外的な状況のみで使える最後の手段である。当然、好景気の下でも一部の企業や業種しか値上げはしない。

 だから、景気が拡大し労働市場が引き締まる程度のことでは、日本では2%インフレにはならない。予想物価上昇率が2%までシフトアップしていくというのは、何らかの理由で2%インフレを当たり前と感じる新たな社会規範が根付くということなので、景気とは別次元の話である。

 日本で2%以上のインフレ率が年単位で観察されたのは、1990~92年度が最後である。その後25年間、つまりほぼ一世代、日本人はゼロインフレの状態に馴染んできた。

 ゼロインフレに馴染んだ社会の予想物価上昇率を2%まで上げられる、というのは仮説に過ぎない。少なくともこれまで他国で実証された例はない。今の日銀の金融緩和は、この仮説を検証する歴史上最初の実験である。そして5年では無理というところまではわかった。

 しかし、これは別に悲観すべきことではない。そもそも物価が上がらないこと自体が、そんなに悪いことなのだろうか。

 2013年に日銀が2%物価目標を掲げたのは、デフレから脱却し持続的な経済成長を実現するうえでそれが有効なのではないか、と当時の状況では考えられたからである。しかし今は、もうデフレではなくなっているし、過度なリスクテイクを伴わない健全な成長局面が5年半も持続している。

 雇用も大幅に増加し賃金も緩やかに上昇している。今や、外国人労働力の受け入れ体制を政府も本格的に検討しなければならなくなるほど、需要不足よりも人手不足の方が深刻な問題だ。

 確かに2%インフレは実現していない。しかし、日銀の責務はもともと「物価の安定」である。デフレでもインフレでもない中で持続的なペースで経済が成長しているのだから、「物価の安定」は既に実現したと言える。

 もちろん、中長期的なインフレ率は2%程度あった方が良い、という考え方が世界の潮流なので、そういう位置づけでの2%物価目標は今後もあって良い。

 しかし、達成が死活問題である目標と、達成できればその方が良いけれども未達成でもさほど困りはしない目標とでは、その目標の達成に向けて払ってもよいと考えるべき犠牲の程度は異なる。

 日銀は、効果と副作用を比較しながら金融政策を運営すると言うが、そういう問題設定の仕方に重大な思考停止が隠れている。効果以前の論点として、そもそも2%インフレになれば日本経済は今よりどれほど追加的に素晴らしくなるのか、この評価が重要だ。

 この評価を抜きにしてバランスのとれた政策判断はできない。たとえ良いことでも今より少し良いぐらいなら、そのために危機対応と見まがうほどの金融緩和を、副作用のリスクまで冒して続けることは、割に合わないからである。

 天秤にかけるべきものは、「効果と副作用」ではなく「メリットとデメリット」である。2%インフレが国民にもたらすメリットと、そのための政策から生じるデメリットを、本来は比較すべきなのである。

 物価が上がらない理由の研究も良いが、「2%の実現には時間がかかりそうなので今の緩和を粘り強く続ける」と繰り返すだけなら、見るべき前進はない。

 1)物価が上がらないことのどこがそれほど悪いのか、2)その点も踏まえて最適な金融政策はどうあるべきなのか、真に問われているのはこれらの点である。かつこれは、日銀だけでなく、日銀の内外で広く論じられるべきテーマであろう。

■門間 一夫(みずほ総合研究所 エグゼクティブエコノミスト)
1957年生。1981年東大経卒、日銀入行。調査統計局経済調査課長、調査統計局長、企画局長を経て、2012年から理事。2016年6月からみずほ総合研究所エグゼクティブ・エコノミスト。

最終更新:7/17(火) 12:03
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