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静岡高・高木「切る」カーブで17K/静岡1

7/12(木) 6:01配信

日刊スポーツ

 1999年夏。静岡の長身左腕、高木康成(3年)が“魔球”を武器に、奪三振ショーで聖地を沸かせた。1回戦は倉吉北(鳥取)から17奪三振。2回戦は甲府工(山梨)から10奪三振。3回戦で敗れはしたが、優勝した桐生第一(群馬)を相手に11奪三振。初戦でマークした17奪三振は当時、金属バット導入後の甲子園最多記録となった。

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 「今見ても、すごく理想的な投げ方ですね」

 17奪三振の翌日、99年8月9日付の日刊スポーツ東京版1面に掲載された自らの写真を見つめ、懐かしむような表情でつぶやいた。現在、巨人3軍マネジャーを務める高木は「今になって分かりますが、高校時代のフォームが一番良かったです」と振り返る。

 当時の見出しには“落差50センチ 消えるカーブ”。ホームベース上でワンバウンドするほどの変化に、倉吉北打線のバットが、面白いように空を切った。1回2死からの7者連続を含む、毎回の17奪三振で2安打完封。前日に被安打1の「準完全」投球を見せた桐生第一の正田樹に続き、全国にその名を知らしめた。

 球種は直球とカーブだけだが「ストライクにするカーブと、ストライクからボールにするカーブを使い分けていました」。女房役の鈴木英彦は毎日、マシンでワンバウンド捕球の練習を繰り返したという。実際、17三振中の11個がカーブで仕留め、そのうちの6個がワンバウンドだった。

 続く2回戦は「初戦ですごく騒がれて、その勢いのままいけた」。初回を3者連続3球三振。落差の大きいカーブで5度も暴投を記録しながら、10奪三振をマーク。9回裏に同点とされたところで右腕の市川治由にマウンドを譲り、一塁に回ったが、延長で競り勝ち、静岡に26年ぶりの夏2勝をもたらした。

 正田との好左腕対決となった3回戦でも、高木の投球はさえ渡った。2-1の7回1死二塁で市川と交代するまで、毎回の11奪三振。当時の取材に「内容では正田君に勝っていたと思います」と答えている。その後、同点とされ、なお2死満塁のピンチで、一塁に回っていた高木の再登板も協議されたが、ナインは市川続投を選択。結果は裏目に出たが、高木に悔いはない。「正直『ここまでか』という感じはありました。こればかりは結果論。前の試合はそれ(継投)で成功しているわけですから」。また一塁の守備中、出塁した正田と言葉を交わしたという。「騒がれた同士で、変な感覚はありました。『お互い頑張ろう』みたいな話をしたのかな」。

 快投劇は3試合で止まったが、奪三振率は驚異の14・5。「静岡のドクターK」は、高校時代に絶対に見せなかったというカーブの握りを教えてくれた。「当時はバレたくないのと、ちょっと変な握りなので、誰にも教えたくなかったんです」。それは直球と同じ握りから、縫い目もそのままに薬指をかけるもの。そこから「抜くというより『切る』感じ」で投げ込んだという。プロ入り後、握りは次第に変わり、スタイルも本格派から技巧派へと変化したが、高校時代に習得した“魔球”は、大きな財産になった。「甲子園は、一生忘れることのない、大きな宝物です」。怪物・松坂大輔の衝撃から1年後の99年も、記録と記憶に残る夏となった。(敬称略)【鈴木正章】

 ◆高木康成(たかぎ・やすなり)1982年(昭57)3月30日、静岡県生まれ。吉田中の軟式野球部で全国制覇し静岡に進学。99年センバツ1回戦で柏陵(千葉)に13回完投勝利。同年ドラフト2位で近鉄入団。オリックスを経て、10年に巨人へ移籍。14年に引退。通算成績は18勝26敗、防御率3・64。左投げ左打ち。現役時代は182センチ、77キロ。

 ◆静岡の夏甲子園 通算85勝82敗1分け。優勝1回、準V6回。最多出場=静岡24回。

最終更新:7/12(木) 8:37
日刊スポーツ

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