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選手宣誓「100回にふさわしく」緊張と高揚、今も昔も

7/14(土) 9:36配信

朝日新聞デジタル

 「せんすせんせい」

 1948年、高校野球の第30回選手権大会の開幕前日。選手宣誓のリハーサルで、甲子園に笑い声が漏れた。

【写真】仙台城南主将の高橋良平君

 石巻の主将、石川喜一郎さんが何度繰り返しても、「せんしゅ」がズーズー弁で「せんす」に聞こえるらしい。恥ずかしくて、次第に声は小さくなった。

 宣誓役に決まったのは、マネジャーが抽選会で1番を引いたから。宮城大会、東北大会でも1番を引き、興奮するマネジャーに、石川さんも「縁起がいい」と喜んだが、「宣誓になりました」と聞いて固まった。当時は1番が宣誓を務めることになっていた。

 リハーサルを見かねた高野連の担当者の許可をもらい、暗唱ではなく紙を読み上げることになった。緊張する性格ではなかったが、後に長男の泰光さん(60)には「足が浮いているようだった」と語った。

 終戦から3年。十分にものがなく、バットは近所の造船所で丸太を削って練習に励んだ。石巻は東北大会で福島商を破り、甲子園出場を決めたものの、旅費の支給は13人分のみ。石巻女子高の女学生が街頭で寄付を集めてくれたが、部員全員は行けなかった。

 自身も球児だった泰光さんは、「『おまえが行くときは1年生も2年生も全員連れていけ』と何度も言われました」と懐かしむ。

 それから40年余り。89年夏の甲子園の開会式で、堂々と選手宣誓をする仙台育英の主将をテレビで見ながら、「たいしたものだ。俺だったら言えないなあ」と感心していたという。その翌年の7月6日、石川さんは永い眠りについた。バッテリーを組んだ毛利光雄さんの墓とは18メートルあまり、マウンドから本塁までの距離にある。

 晩年はうまく会話ができないこともあった。しかし、大会歌の「栄冠は君に輝く」を流すと、うれしそうに口ずさんだ。宣誓をしたあの夏、初めて甲子園で流れた歌だった。

 「父の中には、あの夏がずっとあったのだと思う」

     ◇

 100回目を迎える今夏、宮城大会で選手宣誓をするのは、仙台城南の高橋良平君(3年)だ。6月の抽選会で、希望する54人の主将の中から当選した。校名を呼ばれて前に出ても、現実と思えなかった。家に帰り、「かんだらごめんね」と言うと、母は「大丈夫でしょ」と背中を押してくれた。「やるとなったらやる」と覚悟を決め、言葉を考えた。過去の甲子園や地方大会の選手宣誓をスマホで調べ、入れたい言葉をチームで出し合った。

 主将とはいえ、大勢の前で話すのは苦手だ。7月に入っても「ずっと緊張している」と苦笑いする。授業中も、カレンダーを見ても、宣誓をする自分を想像すると不安でいっぱいになる。「頭が真っ白になって、声が出なくなりそう」

 そんな時、仲間が頼りになる。朝も居残りでも一緒に練習してきた早坂渉君(3年)が「バットを振りながら言えば、覚えられそうじゃない?」と提案してくれた。「1フレーズごとに区切れば、忘れても思い出せそう」。一緒にトスバッティングをしながら宣誓の言葉を口にする。

 緊張するのは、責任感の裏返しでもある。角晃司監督は「練習時間なら日本で10番以内。なるべくして主将になった」と信頼する。放課後は一目散にグラウンドに向かい、夜は「帰れ」と怒るまで居残る。それを1年生から続けてきた。

 2年生の夏前には、角監督に「主将をやらせてください」と名乗り出た。まとまりがなかった一つ上の代の主将に「次はおまえが中心になって、こうならないようにしろよ」と言われたからだ。覚悟を感じた角監督は、高橋君を次の主将に指名した。

 宣誓が決まり、歴史を調べ、過去の球児に思いをはせた。今は「自分は何か縁があったのかも」と感じる。100回分の球児の思いが胸にある。「歴史に残る、100回にふさわしい宣誓をします」(窪小谷菜月)

朝日新聞社