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「鳥栖空襲」なぜ狙われた?終戦直前に3波の攻撃、死者119人 戦禍たどる

7/14(土) 9:50配信

西日本新聞

 終戦間近の1945(昭和20)年8月11日、佐賀県鳥栖市域は米軍の空襲を受け、少なくとも119人が亡くなり、被災者は約3200人に上った。戦災復興都市に指定されず、ほとんど痕跡も残っていないため「鳥栖空襲」を知る人は少なくなった。同市藤木町の臨済宗長福寺を訪ね、鳥栖空襲の戦禍をたどった。

⇒【画像】空襲による穴が残る長福寺のれんが塀

 「町内でも空襲があったことを知るもんは、ほとんどおらんですよ」

 長福寺住職の堀田禅昌さん(77)は4歳の時に空襲に遭った。一緒に話をしていた近所の女性と2人の兄を目の前で失った。爆弾の破片は堀田さんの脚を貫いた。寺は爆風で倒壊。山門横のれんが塀には空襲でできた穴が残る。

「墓石にも傷が」

 磬子(きんす)と呼ばれる金属製の仏具(直径54センチ)や大般若経の経典にも、機銃掃射や爆撃による生々しい傷痕がある。当時の記憶はほとんどないというが「墓石にも傷がある。相当な威力だったんでしょう」と話す。

 市教委によると、同年8月11日、炎天下の午前10時半~11時ごろ、沖縄の基地から出撃した米陸軍第7航空軍の2部隊による3波の攻撃を受けた。

3波の攻撃

 第1波と第2波はA26爆撃機32機が南西と南東の2方向から侵入。鉄道や精米精麦を担った笠井食料倉庫(現鳥栖倉庫)、高射砲陣地(現在のベストアメニティスタジアム付近)など藤木町一帯や東町と今泉町の一部を襲った。

 第3波は午前10時40分ごろ、B25爆撃機48機が西方向から入り、火薬を製造した日清製粉鳥栖工場など曽根崎町一帯を爆撃。本鳥栖町、永吉町の一部が被害を受けた。前日の10日夜には鳥栖上空で米軍が照明弾を落としており、空襲の予告か爆撃位置の確認をしたと考えられている。

鉄道輸送の要、軍需工場が集中

 鳥栖周辺に米軍機が頻繁に飛来するようになったのは沖縄陥落後の同年7月以降。当時の鳥栖は人口約3万人で空襲の対象になるとは考えにくかった。鉄道輸送の要で、軍需工場が集中していたことが狙われた理由とみられる。

 日清製粉鳥栖工場や笠井食料倉庫のほか、航空機部品を作っていた片倉航機製作所(本鳥栖町)などが立地。それらを守るために三つの軍事施設があった。

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最終更新:7/14(土) 11:18
西日本新聞