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「エース」と呼ばれ続けた男 ブラインドサッカー日本代表・黒田智成が語る2020

2018/7/20(金) 21:00配信

みんなの2020

ブラインドサッカー日本代表は、2002年5月、韓国・ソウルで行われた韓国代表との親善試合で、歴史の1ページ目を記した。それから16年、選手もスタッフも入れ替わる中で日本代表であり続けたのは、黒田智成ただ1人だ。単に「代表の一員」であるだけではない。彼は、その16年もの間、日本の「エース」と呼ばれ続けた。

盲学校には、競技としてのサッカーが存在しなかった

「もっとうまくなりたい、もっと面白いプレーをしたいという気持ちで、16年間やってきました。いまも、それは変わらないつもりです。ただ、2月にユースのチームがラオス代表とすごく楽しそうに試合をするのを見て(※1)、自分はあの純粋さを忘れかけていたような気もしましたね。昔はサッカーができるだけで楽しかったけれど、いまは、うまく試合をしなきゃいけない、点を取らなきゃいけないという思いが強い。だからゴールを決めてもうれしいというよりホッとする感じなんです。トモ(黒田の愛称)は決めて当然、という雰囲気もありますから」

実は黒田は一度も本物のサッカーを見たことがない。生まれつき弱視で、7歳までに両目の摘出手術を受けたからだ。唯一、幼い頃にそのやり方を教えてくれたのは、テレビアニメの『キャプテン翼』だった。片目がわずかに見えていたときは、テレビ画面に顔をくっつけるようにして見たという。全盲になってからは、音声だけでプレーを想像した。

「もともとボール遊びが大好きでした。『翼』でサッカーを知ってからは、ひとりでボールを蹴って遊んでいましたね。壁を相手に、『10回連続で蹴り返せるまで晩ご飯は食べない』なんてルールを自分に課したりして。うちは熊本のミカン農家で、山の中にあるので、その斜面も遊び相手でした。上に向かって蹴るとボールが転がって戻ってくるので、便利なんですよ。目が見えないと、遠くに行ったボールを探すのが大変なんです」

しかし通っていた盲学校には、競技としてのサッカーが存在しなかった。部活はもちろん、体育の授業でもサッカーはやらない。鈴入りのサッカーボールを使って、弱視の生徒たちと一緒に遊びで楽しむ程度だった。

「先生は、ぶつかると危ないと思いながらも、僕たちが『やりたい、やりたい』とうるさいので、ゴール裏に音の出る機械を置くなどの工夫をしてやらせてくれました。全盲の子がボールを持ったら、みんなプレーを止めてシュートするまで待つ、というルールもありましたね。でもサッカーは遊びでしかできないので、中学、高校時代は陸上競技や柔道などで大会に出場していました」

大学時代も、黒田は体育の教員に直談判して、何度か晴眼者に交じってサッカーをプレーすることができた。仲間がコーナーキックを黒田の胸めがけて蹴り、それをワンバウンドでトラップしてからシュートしたときの気持ち良さは、いまでも忘れられないそうだ。

「ブラインドサッカーでは胸でトラップするようなパスは来ないので、あんなプレーができたのはそのときだけですね。シュートはキーパーに止められましたけど、思い切り振り抜いた足でジャストミートしたときは、オレってすごい!と思えました(笑)」

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最終更新:2018/7/20(金) 21:00
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