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【平成クロニクル(5)】拓銀・山一證券の破綻(97年11月)日本発恐慌の恐怖に怯えた

7/25(水) 12:56配信

ニュースソクラ

遅すぎた公的資金の注入 長期停滞の原因に

 1997年(平成9年)11月は日本の「金融危機」を全国民が自覚した「魔の11月」になった。北海道拓殖銀行(拓銀)が17日に、山一證券が24日に破綻した。

 いずれも最下位とはいえ、都市銀行(12行)、4大証券の一角を占めた大手金融機関。大きすぎてつぶせないとの「神話」は世の中にはまだあった。11月を境に神話が崩壊し、日本の金融機関のほとんどが資金繰りで倒産寸前の状況に追い込まれた。

 私は当時、日本経済新聞社の日銀記者クラブ(銀行・保険を担当)のキャップ(現場リーダー)として取材する側として渦中にあった。この11月はきちんと布団で寝た記憶がない。

 株価を代表する日経平均は89年末の4万円からすでに1万円台半ばまで下落し、不動産価格も値がつかない物件がでるほど下がっていた。要するにバブルが弾けていた。

 銀行はどこも、不動産関連の融資焦げ付きに苦しんでいた。取材の最前線に居れば、大手金融といえども弱いところから倒れざるえないことは自明のことだった。

 それが証拠に、次の倒産は「どこでいつ」はだいたい2週間前にはわかっていた。大蔵省・日銀が悪いところから計画的に銀行が休みになる週末に「処理」していたからだ。だが、過去の起こったミニ取り付け騒ぎへの教訓から、報道は控えざるえなかった。

 知っていて書かない、書けない葛藤は繰り返しあったが、この頃には書かない自負が生まれていた。それまでは知る権利を振りかざして、記事を書き飛ばしてミニショックを与えるメディアもあったが、この頃には「慎重」な記者ばかりになっていた。

 この時も、「次」が北海道拓殖銀行であることはわかっていた。起死回生策として選んだ北海道銀行との経営統合が97年春に事実上、破談。それ以降、拓銀は日々の資金繰りにも苦しんでいた。

 だが、6兆円規模の大銀行は資金繰りの懐も深い。日銀の事実上の管理下にあって小康状態が続いていた。それが、この11月に突然死する。きっかけは、11月4日の三洋証券の倒産だった。

 コール市場と呼ばれた金融機関だけの日々の資金繰りのための貸し借りの市場で、三洋が群馬の信金から借りていた資金が返されない「債務不履行(デフォルト)」になった。三洋と金融当局が見落としていた「事故」だった。

 わずかな額の返済停止だったが、無担保がほとんどのコール市場はあっという間に資金の出し手がいなくなり、麻痺する。コール市場に資金繰りを大きく依存していた拓銀は融資を回収するなどあらゆる手段をとったが、ついに倒れた。取材として、半年以上、拓銀東京本部の人の出入りをチェックしていたが、最後はあっけなかった。

▼同じ月に二つの「突然死」、山一証券と拓銀

 山一証券の破綻は拓銀とは関連性はほとんどない。山一の場合は、91年に発覚した大口顧客への損失補填を止めるだけの体力がなく、自分でかぶった損失を、海外の商品に投資する形で隠す、いわゆる「飛ばし」をしていた。

 社長交代で就任した野沢社長がこれに気づき、大蔵省証券局に報告したことから、これが発覚した。山一証券は大蔵省は黙認してくれるとたかをくくっていた節がある。

 ところが、大蔵省はこの隠蔽を許さなかった。95年に巨額損失が発覚した大和銀行事件で、報告から2週間あまり放置していたことで、損失隠蔽に加担したかのような批判を受けたことにも懲りていた。ほぼ直後に「自主廃業」するように言い渡している。その意味で、山一破綻も「突然死」だった。

 なぜ、破産でも会社更生法申請でもない、自主廃業という方式になったのか。まだ隠していたのかという怒りもあったが、本当は中国の銀行向け貸し付けがあって、これを焦げ付かせれば国際問題になりかねなかった。後に金融ジャーナリストの森岡氏が、ソクラでの記事で明らかにしている。

 たまたま、大手の銀行と証券が同じ月に破綻した影響は壮絶だった。相乗効果を伴って国際市場に波及。日本の金融機関の「信用」は地に落ち、海外市場ではジャパンプレミアムと言われる、日本の金融機関向けの上乗せ金利がさらに激しくなり、いくら金利を上乗せしても資金は取れない状態に陥った。すべての日本の金融機関が、資金繰りがひっ迫する12月末を超えられるか、わからない恐怖感を味わった。

 もっとひどかったのは、国内だ。静かなパニックで、預金引き出しや信託銀行での預金にあたる貸付信託の解約が相次いだ。特に狙われたのが、山一証券と関係が深かった富士銀行で、その系列の安田信託銀行は解約の列ができた。当局の指導もあって、銀行は店のなかに誘導し、テレビで放映されることはなかった。日本発の世界金融恐慌が起こるのではないかと、関係者が震えた日々だった。

 いまならネットで情報が流れるのを止めることはできない。全国的な取り付け騒ぎに発展するのは防げないだろう。

▼公的資金の投入と、相次ぐ合併

 二つの「突然死」による日本の金融システムへの不信感を拭うため、1998年3月に大手21行に強引に1兆8000億円の公的資金が注入された。さらにその夏の日本長期信用銀行、日本債券信用銀行の破綻を経て、99年3月にはさらに約5兆円の公的資金が投入され、生き残りのための大手銀行の合併が相次いだ。

 公的資金の導入には前哨戦があった。92年8月、バブルの崩壊を受けて日経1面で「危機回避の処方箋」という6回の連載企画を掲載した。最後の回の筆者は私で、英国の例などを引きながら、優先株の引き受けによる公的資金の注入を提言した。

 直後の8月30日、宮澤喜一首相は軽井沢のセミナーで「公的資金の投入」に前向きな発言をした。私は小躍りした。三重野日銀総裁が首相の背中を押したが、財界・金融界そして大蔵省の根強い反対で発言はあっさり撤回された。

 危機感がまだ足りなかった。だが、真実が伝わっていればパニックが起こったはずだし、公的資金を入れれば、銀行救済への怒りで政権が倒れていたと思う。同時に公的資金の投入が遅れたことが、平成の経済停滞の一因だった。失われたものは大きい。大胆になれない「日本の政治」の限界を感じた瞬間だった。

■土屋 直也(ニュースソクラ編集長)
日本経済新聞社でロンドンとニューヨークの特派員を経験。NY時代には2001年9月11日の同時多発テロに遭遇。日本では主にバブル後の金融システム問題を日銀クラブキャップとして担当。バブル崩壊の起点となった1991年の損失補てん問題で「損失補てん先リスト」をスクープし、新聞協会賞を受賞。2014年、日本経済新聞社を退職、ニュースソクラを創設

最終更新:7/25(水) 12:56
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