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【岡山から伝えたい】「水害は必ず起きる」亡き祖父が話していたのに 「教訓」伝える難しさ 真備

8/8(水) 14:00配信

山陽新聞デジタル

 200人以上の死者が出る「平成最悪」の水害となった西日本豪雨。被災地の地元メディアである山陽新聞が「生かされなかった教訓」を伝える。4河川8カ所の堤防が決壊し、甚大な浸水被害を受けた倉敷市真備町地区。被災した住民たちへの取材で、未曽有の災害の実態に迫る数々の証言を得た。平屋の本堂は基礎部分の土が削り取られ、つんのめるように傾いている。普段は地中にあるはずの排水管が幾本ものぞく。倉敷市真備町有井。西日本豪雨の深い爪痕が残る「大日庵」境内だが、その墓碑は倒壊を辛うじて免れていた。「溺死群霊之墓」だ。

 1880(明治13)年、末政川の堤防が崩れ落ち、28戸が押し流された。33人が犠牲になり、弔うために建立した―。墓碑にはそんな内容が刻まれ、かつての水害の歴史を伝えている。

 真備町地区では西日本豪雨による堤防の決壊が4河川8カ所に及び、このうち末政川は西岸1カ所、東岸2カ所で確認された。現在の川幅は7メートルほど。大日庵は幅150メートルにわたって破堤した西岸近くにあった。

 「決壊の言い伝えは古くからの住民ならよく知っている」と近所の自営業佐々木浪夫さん(58)が教えてくれた。「ただ、それは堤防が低かった100年以上も前のこと。まさか、同じような場所で再び起きるなんて誰も思わなかったはず」

180人が犠牲

 西日本豪雨で甚大な浸水被害を受けた倉敷市真備町地区は高梁川、小田川が流れ、その小田川には末政川など複数の支流が注ぐ。豊富な水の恩恵を受ける一方、氾濫の危険にたびたび直面してきた。

 溺死群霊之墓が伝える水害の13年後、93(明治26)年には高梁川と複数の支流で堤防が決壊した。付近の384戸のうち19戸を残して全て押し流され、犠牲者は180人に上ったと、真備町史は記している。

 「水害対策で川舟を持っている家庭は少なくなかった」と証言するのは、真備町地区で生まれ育った加藤太市さん(84)=同町川辺=だ。「でも宅地化が進むとともに堤防や揚水機が整備され、大洪水は目に見えて減った」

 西日本豪雨で自宅2階の床上まで水に漬かった守屋紀男さん(79)=同町下二万=は後悔の念を抱えている。以前取り壊した長屋の2階壁面には床上約25センチまで内部の土壁が露出している所があり、亡き祖父からは「水害の痕跡」と聞かされていた。その教訓から自宅は地上3メートル近くにかさ上げされていた時期があったが、紀男さんは40年ほど前、1メートルほど低く建て替えた。

 「祖父は『水害は必ず起きる』と話していた。堤防があるから大丈夫と思ったけど、真剣に聞いておくべきだった」

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