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【岡山から伝えたい】残るか去るか、真備町住民の葛藤 移り住み半世紀、築いた「故郷」

8/9(木) 14:01配信

山陽新聞デジタル

 200人以上の死者が出る「平成最悪」の水害となった西日本豪雨。被災地の地元メディアである山陽新聞社が被災者の胸のうちを伝える。西日本豪雨で被災した倉敷市の真備町地区には高度経済成長期から、水島工業地帯の発展とともに造成された住宅街がある。住民の多くがコンビナート企業に勤め、町外から移り住んだ。新たな土地で住民同士の絆を深め、半世紀近くかけて築いた「故郷」は豪雨被害にさらされた。住民たちは揺らいでいる。ここに残るか、別のまちに移るか―。

 真備町辻田。1970年代半ばに建てた前田光男さん(74)の自宅は天井まで水に漬かった。丹精したバラをめでるのが楽しみだった庭も濁流にのまれた。

 福岡県出身の前田さんは、倉敷市沿岸部の水島コンビナートで操業する化成水島(現・三菱ケミカル水島事業所)に就職し、真備町にマイホームを構えた。その頃は30代。周囲には同じように水島で働く子育て世代が多く、活力に満ちていた。

 退職後は一層、まちづくりに打ち込んだ。公民館を会場に、懐かしい歌謡曲やフォークソングを口ずさむ月1回の「歌声喫茶」をスタート。毎回100人ほどが集まった。この8月には、そろいの法被や浴衣を着て阿波踊りを楽しむ催しも計画していたが、水害で中止となった。

 被災後は妻と町外のアパートで暮らしている。自宅は取り壊して、さら地に戻すことも考え始めた。その一方で「骨を埋めるつもりだった真備に帰りたい。それを願ってくれている仲間もいる」と前田さん。葛藤の日々が続いている。

 真備町地区は70年代、水島コンビナートの整備に合わせ、急速に宅地開発が進んだ。70年に1万2千人余りだった住民は10年後、2万人を突破した。

 中江輝子さん(74)は約45年間、同町有井の住宅団地で暮らしてきた。川崎製鉄(現・JFEスチール)に勤めていた夫が、水島勤務になったのを機に一戸建てを新築した。新興住宅地だった当時、子どもたちの元気な声が響き、親同士も仲良し。小学校の運動会は大いに盛り上がり、団地内の家族で度々、旅行を楽しんだ。

 「40年以上の付き合いがある友達もいて、楽しくて暮らしやすい町だった」。今は夫とともに避難所に身を寄せる。浸水した自宅を建て直す余裕はなく、総社市にアパートを確保した。

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