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【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】北条氏の掛川城支援(掛川市掛川)

8/12(日) 7:55配信

産経新聞

 ■1000人派遣、熾烈な戦い展開

 永禄11(1568)年12月、今川氏真率いる今川軍は薩●(さった)山(静岡市清水区)で駿河に侵攻した武田信玄に討ち負けた。朝比奈信置、葛山氏元、瀬名氏俊ら重臣たちが武田氏に寝返り、迎撃できる状況になかった。氏真はいったん今川氏館に戻るが、身の危険を察し安倍川西岸の建穂寺に逃れ、ここで半日も滞留していたのは小田原北条氏の援軍を待っていたのだろう。

 しかし、北条軍が現れることはなく、武田軍の追っ手が迫り、氏真は川根筋の山道を経て掛川城へ脱出した。その際、夫人の早河殿(北条氏康の娘)は輿(こし)もなく徒歩で逃れた。これに氏康が怒り心頭に発したという書状もある。

 氏康の嫡子・氏政はすぐさま重臣の大藤政信、清水康英、板部岡康雄ら1千人余りを海路から掛川城へ派遣。氏真と早河殿は北条氏の手によって手厚く守られていた。さらに北条氏は駿河へ進軍し、蒲原城を拠点として薩捶山に大軍を布陣させ、乱入した武田軍と長期間にわたって対峙(たいじ)したのは上杉謙信との武田氏挟撃作戦であった。

 一方、武田氏と連盟していた徳川家康は、氏真が掛川城に籠城(ろうじょう)していることを知り、ここでも熾烈(しれつ)な戦いが展開された。掛川城主の朝比奈泰朝も長く勇敢に戦った。このとき、北条氏家臣の西原源太が身命をなげうって馳走したことに氏真は感状を与えている。

 しかし、12年5月、氏真と家康との間で盟約がなされ、氏真は北条氏の庇護(ひご)の下に掛川城を開け渡し、今川氏は滅亡した。氏真は北条氏の兵に守られ、懸塚(磐田市)から海路をたどり蒲原に着城した。そこで氏真は氏政の嫡子・国王丸(後の氏直)を養子に迎えた。また、北条氏領に近い沼津市大平が今川氏の御料所であったことから、大平古城を築き入部した。いずれ駿府に帰還できると考えていたのかもしれない。(静岡古城研究会会長 水野茂)

●=土へんに垂

最終更新:8/13(月) 10:07
産経新聞