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1945年8月12日から日本の戦闘機開発は止まっている

8/11(土) 9:40配信

ニュースイッチ

幻の国産初のジェット戦闘機「橘花」、オーバーランして終戦

 日本では「F2」戦闘機の後継機を巡り、日本主導の国際共同開発の行方が注目されている。日本は、太平洋戦争前半まで、数多くの戦闘機を輩出する「航空大国」だった。戦争中盤からは戦局悪化に物資不足が重なり、航空機の開発は鈍るようになったが、それでも終戦間際に画期的な航空機を開発。量産されなかったものの、飛行試験にこぎつけていたー。

 広島に原子爆弾が落とされた翌日、1945年8月7日。千葉・木更津にある海軍の飛行場で、1機の航空機が爆音をとどろかせて飛び立った。祈るような視線を浴びせるのは、海軍空技廠や中島飛行機の技術者たち。日本初のジェット機「橘花」が生まれた瞬間だった。

 当時、まだ自動車と同様の「レシプロ式」が主流だった航空機のエンジン。しかし、基本的にはプロペラを回して前方の空気をそのまま後方に吹き出すだけなので、スピードには限界があった(プロペラの回転速度が音速に達すると衝撃波が発生し、空気抵抗が急に増えてしまう)。当時はこれに加え、燃料事情も悪くなっており、粗悪な燃料でも動かすことのできる高性能なジェットエンジンが求められていた。

 航空機の性能はほとんどエンジンで決まるといっても過言ではない。ドイツやイタリア、英米などは1940年代前後に次々とジェットエンジンの実用化に成功し、なかでもドイツは42年に世界で初めてジェット戦闘機(メッサーシュミットMe262)の飛行に成功していた。日本の陸海軍も、当初は独自にジェットエンジンを開発する方針をとったがいずれも実戦配備には至らず、1944年、軍事同盟を結んでいたドイツからMe262に搭載されていたBMW製のエンジン「BMW003」の図面を取り寄せて開発することになった。

 とはいえ当時のは図面の取り寄せもままならない状態だった。大戦中で鉄道や船を使った物資の輸送は敵の妨害を受ける中、日本とドイツは、開発したばかりの潜水艦を使って軍人や技術資料を運んだ。ただ、戦争末期になると戦局の悪化により、潜水艦も撃沈されることが少なくなかった。

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最終更新:8/11(土) 9:40
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