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1回の遅刻で失ったJリーガーの地位 アジアに活路見いだす「渡り鳥」

8/12(日) 12:13配信

GLOBE+

ワールドカップ(W杯)ロシア大会に世界が沸いていた7月中旬、伊藤壇(42)は台湾にいた。長距離バスで各地を回り、台湾リーグの練習試合に参加させてもらう。プロサッカー選手として20年、アジア20の国や地域を渡り歩いてきたが、所属先が決まらないままシーズンを過ごすのは初めてだ。まだ契約には至らないが、諦めてはいない。 2017年に入団した東ティモールのチームで1シーズンをまっとうして現役を退くつもりが、シーズン途中で突如、契約解除を通告された。以来1年あまり、地元・札幌でサッカーを教えながら、携帯電話の契約もせずに次の「行き先」を探し続けている。「このままでは終われない」。自らの「甘さ」からサッカー人生が暗転した、あの時から抱く「サッカーで味わった悔しさは、サッカーでしか返せない」という思いが、伊藤を突き動かしている。(中野渉)

スポーツ万能少年 入団2年目の挫折

忘れられない光景がある。1999年の夏。J2「ベガルタ仙台」入団2年目のミッドフィールダーだった伊藤は、久々のスタメン出場をつかんだ。ルーキーとして順調なスタートを切った1年目とくらべて、序盤はけがで出遅れていただけに、試合にかける思いは強かった。だが、試合当日。起きると、日が高い。時計を見ると、すでにミーティングの集合時間だった。あわてて電話を入れたが1カ月の謹慎処分を言い渡される。その後も出場機会は訪れず、シーズン終了後に契約更新はなかった。
Jリーグ誕生後間もない時期、J1昇格を目指す高揚感がチームにみなぎる中で、伊藤は「遅刻」をきっかけに夢だったJリーガーの道を2年で外れた。「当時は、仲間に誘われたら平日でも朝まで遊んでいたし、遅刻も初めてではなかった。気の緩みがあったし、節制もできていなかった」。今でこそ冷静に振り返るが、当時の伊藤に残ったのは、喪失感とプライドだけだった。
少年時代からスポーツ万能で、「好きなことを一生懸命やっていれば、将来への道は勝手に開けていく」と思ってきた。小学2年で野球を始めればピッチャーを任され、小6の時にはアイスホッケーの選抜チームで全国制覇。漫画「キャプテン翼」に憧れて始めたサッカーでも12歳以下の日本代表候補合宿に呼ばれた。そこで「全国トップとのレベルの差」を痛感し「やるからには一番を狙う」とサッカー特待生として登別大谷高校(当時)に進学。3年の時に決勝ゴールを決めて同校初の全国大会出場を勝ち取った。
「他人と一緒は嫌だと言いながら、周囲に気を使えて、誰よりも多くファンレターをもらっていた」。高校時代、ともにプレーした地元建設会社社長の里圭介(42)が回想するのは「何でも一番」だった伊藤の姿だ。

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最終更新:8/12(日) 15:16
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