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脱デフレの賃金上昇率は、統計の歪み

8/17(金) 18:02配信

ニュースソクラ

【門間前日銀理事の経済診断(9)】昨年と同じ事業所で比較すると、むしろ低下

 賃金動向をみるときに最もよく使われる統計が、厚生労働省が公表している「毎月勤労統計」である。

 政府・日銀をはじめ多くの経済分析関係者は、通常この統計の「現金給与総額」の「前年比」で賃金上昇率を見る。

 その賃金上昇率は、ここ数年にわたり概ね0%台前半で推移してきた。ちなみに2017年は年間で0.4%であった。企業収益の大幅な増加のわりには賃金の伸びは低い。

 しかし、2013年以前はマイナスとなる年が多かったことを考えれば、アベノミクス景気の下、2014年以降4年連続でプラスとなった事実は注目してよいだろう。

 しかも、今年に入ったあたりから賃金上昇率は急速に高まっている。3月は2.0%、5月も2.1%と、近年見られなかった2%台の高い伸びが、今年は既に2回も観察されている。

 この結果、本年1~5月累計でみた賃金上昇率は1.4%まで上昇した。同じ数字が昨年は0.3%だったので、急速な改善である。このまま年間の賃金上昇率が1%を上回れば、1997年以来のことになる。これを額面通り受け止めれば、日本経済はデフレから完全に脱却したと言ってよい。

 さて、ここからが本題である。上記で「額面通り受け止めれば」とあえて述べたのは、額面通り受け止めにくい事情があるからである。毎月勤労統計は今年1月から作成方法が改定されており、それが賃金上昇率の数字にゆがみを与えている可能性が高いのである。

 毎月勤労統計は約3万3千の事業所から賃金、労働時間、雇用などのデータを徴求して作成される。従来は、一定規模以上の事業所については、2~3年継続して同じ事業所からデータを徴求していた。

 それが今回の改定により、毎年3分の1ずつ事業所を入れ替えてデータを徴求することになった。とくに今年と来年は、こうした改定の過渡期に当たるという技術的な理由から、2分の1もの事業所が入れ替えられる。

 つまり、先ほど見た今年の高い賃金上昇率は、サンプル企業群の中身が半分異なるもの同士で、昨年と今年の賃金を単純に比較したものなのである。今年のサンプルに新しく入った企業の賃金水準が、今年のサンプルから抜けていった企業の賃金水準よりもたまたま高かったとすれば、実態として賃金が全く増えていなくても前年比はプラスになる。

 違うサンプル同士の比較にそういう問題がありうることは、最初から当然わかっていた。そこで厚生労働省は今年から、当年も前年もサンプルに選ばれている企業だけを集計した「共通事業所」ベースの前年比も、参考資料として併せて公表している。これは良いことである。

 注目したいのは、この共通事業所ベースで見れば、賃金上昇率は今年になってむしろやや低下している、すなわち公式統計と逆の動きになっているという点である。

 先ほど、公式統計による1~5月の前年比は1.4%と述べたが、共通事業所ベースだと0.6%にとどまる(各月のウェイトは非公表なので筆者の推計による)。そして、それと比較できる昨年の数字は0.9%だったので、今年は0.3%ポイント低下しているのである。

 ちなみに、5月の賃金上昇率は、公式統計では既述の通り2.1%という高い伸びであったが、共通事業所ベースではわずか0.3%に過ぎない。これだけ差が大きいと、2.1%と0.3%のどちらを信じるかで評価が大きく変わる。

 小売業界などで既存店ベースの数字が重視されるように、「前年比」はできるだけ同じサンプルで見る方がよい。だからこの場合、低くて残念ではあるが0.3%を信じる方がよい。

 厚生労働省は共通事業所ベースの数字を「参考」扱いにしているが、むしろ逆ではないか。「前年比」に関する限り、共通事業所ベースの計数の方が理にかなっているのであり、昨年と今年でサンプルの中身が半分も異なる公式統計の方こそ「参考」程度の位置づけにとどめておくべきだ。

 この点について、統計を利用する側で工夫している例はある。例えば日銀が8月1日に公表した最新の展望レポート(全文)では、所定内給与の動向を評価するに当たって共通事業所ベースの計数を利用しているほか、公式統計で分析した部分については補正してみるべき方向性について脚注で解説を加えている。

 しかし、メディアの記事等多くのケースにおいては、公式統計だけが使われており、ミスリーディングである。今年は高めに出ているが、年によってバイアスがどちらに出るかはわからない。もし来年低めに出るようになったら、「上がらない賃金」が途端に大問題になるのだろうか。

 こうした実情を踏まえると、統計作成側には、利用者が統計の特徴や限界を踏まえて正しい使い方ができるよう、公表の仕方や内容について最大限の工夫を求めたい。毎月勤労統計について言えば、共通事業所ベースの計数が現在はごく一部の項目についてしか公表されていないが、もっと公表の対象範囲を広げるとともに、利用者にその利用を積極的に促すことなどが望まれる。

 もちろん、共通事業所ベースにも留意点はある。この点、公表資料には「本系列に比べ、サンプルサイズが小さくなることに留意が必要である」との注意書きがある。しかし、もしそれが精度に深刻な影響を与えるほどの問題なのであれば、共通事業所ベースで十分なサンプル数が確保できるよう、全体のサンプル数をもっと増やすのが筋だろう。

■門間 一夫(みずほ総合研究所 エグゼクティブエコノミスト)
1957年生。1981年東大経卒、日銀入行。調査統計局経済調査課長、調査統計局長、企画局長を経て、2012年から理事。2016年6月からみずほ総合研究所エグゼクティブ・エコノミスト。

最終更新:8/17(金) 18:02
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