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<地震・災害>東日本大震災被災者に聞く 「災害は誰の上にも起こる」

9/3(月) 8:21配信

アジアプレス・ネットワーク

◆「遠くの山の杉林が ゴムのようにうねり返った」

6月18日に起きた大阪北部地震。私の住む地域も大きく揺れた。「大丈夫?とにかく余震に気をつけて」。すぐに連絡をくれたのが、木村理恵さん(48)だった。東日本大震災の被災者のひとりだ。(玉本英子・アジアプレス)

7年前の3月11日午後、彼女は宮城県大崎市の職場にいた。突然、窓がガタガタと音を立て、地面が突き上げるように激しく揺れ始めた。コピー機が跳ねあがり、とっさに建物の外に飛び出した。遠くの山の杉林が、ゴムのようにうねり返っていた。

◆電話やネットが不通 両親を捜しに気仙沼へ

電話やネットは不通になり、気仙沼の海岸そばに暮らす両親と連絡がとれなかった。津波被害や原発事故の情報が入ってくるようになると、地震の規模の大きさと被害の深刻さがわかってきた。気仙沼は津波で飲み込まれたようだ、と知らされた。

両親を捜そうと、気仙沼に向かうことにした。不安で目の前が真っ暗になりそうなとき、みんなの支えが励みになったという。職場の人が車を準備し、近所の中学生たちが、「避難所に届けて」と、おにぎり100個をつくってくれた。気仙沼に向かう途中、海から遠く離れた平野部にまで泥を被ったランドセルやギターが流れ着いていた。

寸断された道を迂回し、何時間もかけて町に入る。市役所の被災者名簿から、母の避難先が分かった。津波が押し寄せたとき、母は近所の人たちと高台に逃れた。だが車で出かけていた父親の行方はわからなかった。

◆インドネシア・バリ島へ移住

3か月後、実家そばの大谷海岸に父の遺体が打ち上げられた。服装や時計、歯の形状から父親と判別できたという。火葬した時、遺骨に砂は混じっていなかった。「泥水を飲んでいない。津波でおぼれ苦しんではいないはず」。そう自分に言い聞かせた。

木村さんはその後、仕事を辞め、被災者の支援を始めた。しかし活動場所の放射線量が非常に高いことが分かった。心労も重なり体調を崩し、活動を中断。友人の勧めでインドネシア・バリ島に渡った。そこにはすでに福島などから20家族が避難していたという。島の生活で体調は徐々に回復、木村さんは自宅を兼ねた小さな保養所を始めた。日本から東北の被災者もやってきた。観光に出るよりも、部屋でゆっくりくつろぐ人が多かったそうだ。

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