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<戦争体験者は語る>11歳で旧満州から引揚~(上)罪背負い続けた戦後

9/9(日) 6:02配信

アジアプレス・ネットワーク

73年続いた戦後を戦前に戻さないために「不戦の誓い」を再確認する夏。旧満州(現中国東北部)からの引揚者で「母と妹を殺めた」京都市伏見区の村上敏明さん(83)。戦争の語り部として、その体験談を伺った。(矢野宏・栗原佳子/新聞うずみ火)

村上さんはこの6年間、毎週金曜日に関西電力京都支店の前に立ち続けている。市民有志が脱原発を訴える「キンカン行動」。321回目を数える8月17日も「バイバイ脱原発」と青字で書かれたピンク色のボードを手にし、再稼働撤回などを訴えていた。
原発事故で、福島から避難してきた若い母親との出会いがきっかけだったという。

「ただ子どもを守るために京都にやって来た。必死で逃げてきた姿が戦場の家族と重なったのです。責任を負うべき人が責任を取らず、市井の人が苦しみ、涙を流す。原発事故は戦争と同じなのです」

村上さんが旧満州に渡ったのは1938年、4歳の時だった。盧溝橋事件で日中戦争に突入した翌年のこと。京都市役所に勤めていた父が南満州鉄道の関連会社に転職したため、母と2人の弟と京都から大連へ移り住むことになったのだ。小学2年の時には父の転勤で四平という街へ移住している。道路が碁盤の目のように整備された街で、2万5000人もの日本人が住んでいた。

「中国人を『チャンコロ』と呼び、蔑んでいました。路上で見かけた同じ年頃の子を石でたたいたり、集団で殴りかかったりしていました」

44年夏にサイパンが陥落。日本本土は空襲に見舞われるようになった。「大連も空爆されたと聞きましたが、四平ではのんびり暮らしていました。運動場に水をまいて凍らせ、スケートを楽しむなど、戦争はどこか遠い国で起きていることのように思っていました」

◆父親も現地召集

ところが45年5月、関東軍の兵士が列車で南下していく光景を見た。代わって街の男性が「根こそぎ動員」されていった。妹の芙美子さんが生まれた直後、父も徴兵された。
8月9日、ソ連が日ソ不可侵条約を破り、満州への侵攻を始める。村上さんは「ソ連の戦闘機が飛んできたら知らせるように」と言われ、外に立って北の空を眺める監視要員を務めていた。
そして8月15日、「大事な放送があるから聞きなさい」と言われ、大人たちに交じって玉音放送を聞く。

「意味がわかりませんでしたが、戦争に負けたことはわかりました。僕の戦争はこの『敗戦』から始まるのです」

ソ連兵が四平にも入ってきた。「女を出せ」と、暴行と略奪を繰り返した。

「一度、家にソ連兵2人が来たことがありました。母親がいない時で、私はドアの前に立って『うちには何もない』と言って追い返そうとしたのですが、弟たちは部屋の隅で震えていました」

徴兵された父の行方はわからないままだった。会社から支給されていた給与も凍結され、母はがんもどきを作っては繁華街で売り歩いた。村上さんは妹のお守りを任されたという。

「いつも背負っていたので、どんな表情をしていたのか覚えていないのです。写真もありませんから」

満州などの「外地」からの引き揚げは困難を極めた。敗戦直前、日本政府は「外地にいる居留民はできる限り定着の方針を執る」と棄民政策を打ち出しており、敗戦後も「国籍を離れるもやむを得ず」と発表していた。

四平では46年3月にソ連兵が撤退すると、中国共産党軍が進駐してきた。5月には中国国民党軍との内戦が再開。連日、鉄砲や機関銃、大砲の音が鳴り響き、目の前で戦闘が繰り広げられた。

満州の日本人会は日本へ密使を派遣し、吉田茂外相を通じてGHQ(連合国軍司令部)のマッカーサー司令官に現状を伝え、引き揚げに協力してもらえるようを直訴した。その結果、葫蘆島(ころとう)までは中国側が、葫蘆島からの帰国は米国側が担当することになったという。(続く)