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<戦争体験者は語る>11歳で旧満州から引揚~(下)「母と妹を殺めた」

9/11(火) 5:30配信

アジアプレス・ネットワーク

旧満州(現中国東北部)からの引揚者・村上敏明さん(83)は戦後、自らの罪の背負い続けてきた。「不戦の誓い」を胸に、今は戦争の語り部として、その体験談を語る。(矢野宏・栗原佳子/新聞うずみ火)

◆「足手まとい」

満州の日本人会がようやく引揚げを開始した時、父はシベリアに抑留されていたが、知るよしもない。村上さんは11歳、2人の弟は9歳、4歳、妹はわずか1歳。日本人会の大人たちから「栄養不良で病弱な子どもは列車の旅で足手まといになるから殺すように」と言われたという。

「母が妹を抱いて、僕が芙美子の小さな口にスプーンで透明の薬を飲ませたのです。瞬間、芙美子は黒い瞳でじっと見て、『お兄ちゃん、何するの』と言っているようでした」

小さな亡骸は、家の近くの川沿いに土葬したという。
ショックのためか、村上さんは引き揚げの時の記憶を長い間失っていた。記憶を呼び覚ますことができたのは、同級生だった小林允(まこと)さんの存在だった。

「36年後に再会した時、『お母さんはどうしている?』と聞いてきました。引き揚げで小林君の家の前を通った時、母が荷車の上で寝たままだったことを心配してくれていたのです。僕はこのことを全く記憶していなかった。さらに、小林君は『君は泣きじゃくり妹を殺したと話していた』と語ってくれたのです」

◆いつもと違う薬

引き揚げ船が着く葫蘆島港までは400キロ。無蓋車の中で、母が「芙美子、芙美子」と呼ぶ声だけが村上さんの記憶に残っていた。

「僕が妹を殺したことと、娘を見殺しにするしかなかったことがショックだったのでしょう、母は寝たきりになっていたのです」

母親は葫蘆島港近くの病院に入院し、村上さんが介護した。46年8月6日、薬を飲ませていた村上さんに、いつもと違う粉薬が医師から手渡される。

「母に飲ませると、口から泡を吹きだしたのをはっきりと覚えています。回復の見込みがない病人は医師の判断で安楽死させられたのでしょう」

2人の弟とともに、母の遺体に寄り添って寝たのを覚えているという。

「翌日、海の見える小高い丘に母を埋葬しました。母の荷物の中からお気に入りの着物を遺体にかけてやり、弟たちと土をかぶせました。弔うように鳴り響いた汽笛の音が今も耳に残っています」

村上さんらを乗せた引き揚げ船が長崎・佐世保に到着したのは9月10日のこと。母の実家がある京都府亀岡市を目指した。京都駅からは府の職員らしき人が連れて行ってくれ、祖母に引き合わせてくれた。

引き揚げで衰弱した9歳の弟が5カ月後に病死する。結核性髄膜炎。亡くなる直前、「芙美子が……」とつぶやいた。

シベリアに抑留されていた父親が帰国したのは48年のことだ。父とは多くを語ることはなかったという。

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