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「なぜ熊谷が標的にされたのか」…ヤフー、熊谷空襲の記憶を映像に 体験者の証言を特集、28日公開予定

9/19(水) 11:31配信

埼玉新聞

 終戦直前の8月15日未明に熊谷市中心部を襲った熊谷空襲。その体験者の証言などを映像にまとめた特集を、インターネット検索大手ヤフーが制作している。担当する宮本聖二さんは「熊谷にとって歴史を一変させられた空襲の重さや、なぜ熊谷が標的にされたのかを伝えられれば」と話す。28日公開予定。

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 宮本さんはNHKで戦争や東日本大震災など数々のドキュメンタリーを制作。2015年12月にヤフー入社。特集「未来に残す 戦争の記憶」をネット上で公開している。

 取材現場では宮本さんがインタビュアーを務める。同市上之の長崎良一さん(85)は当時12歳。自宅は松岩寺(同市本石)近くにあり、家族で荒川の方へ逃げた。夜が明けて土手の上から見渡した街は見渡す限りの焼け野原。焼け焦げた住宅の柱から細い煙が立ち上るのを見て「亡くなった人の魂を慰める線香のようだ」と思ったという。

 終戦の年は国民学校高等科1年。授業もなく、工場へ勤労動員に駆り出された。作ったのは弁当箱ほどのベニヤ製の部品。軍用機に使われたらしいが詳しくは分からない。

 当時5歳だった清水昭治さん(78)は、同市石原の自宅北側にあった木造の縫製工場に焼夷弾が落ち、燃え上がった光景を強烈に覚えている。縫製工場は軍需工場に転用され、清水さんの父親が鎌倉町で経営していた染物工場も戦闘機の翼を作っていた。その染物工場も全焼だった。

 熊谷市から利根川を隔てた群馬県太田市には航空機メーカーの中島飛行機があり、戦闘機を作っていた。長崎さんは「熊谷は太田の飛行場も近く、家内制手工業で軍需工場の下請けをしていた家も多かったようだ」と話す。

 熊谷市立江南文化財センター主任の山下祐樹さん(35)は熊谷空襲に関する米軍資料を入手し、分析した。それによると、熊谷の中心市街地には中島飛行機の下請け、孫請けの中小工場が多く、それらが狙われた。逆に標的になっていた工場が爆撃されず、戦後に日本の軍需産業を解明する目的で残した形跡もある。「米軍の戦略はそれほど緻密であり、既に終戦への流れは見えていた」と山下さん。

 既に日本はポツダム宣言受諾の意向を示し、米国も認識していた。なのに大都市でもない熊谷が標的にされた。宮本さんは「(敵国の)生産力をそこに住む人々の暮らしごと破壊するのが米軍の戦略。その通りのことが熊谷で起きてしまい、地域が破壊されたということをつくづく感じます」と語る。

 特集「戦争の記憶」URLは、https://wararchive.yahoo.co.jp/

最終更新:9/19(水) 11:31
埼玉新聞