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「メイショウ」の馬主、日本のものづくり支える100年企業だった

9/23(日) 17:09配信

ニュースイッチ

船舶から航空機部品まで。「きしろ」は時代とともに

 兵庫県明石市に本社を置く「きしろ」は、1915年の創業から一貫してモノづくりを続けてきた。ただし100年余りの間に、ものづくりの中身は時代の変化に応じて、あるいは経営者の交代を機に変貌を遂げてきた。4代目である松本好隆社長は「自社製品を持たない会社なので、お客さまの要望に応えるために丁寧に仕事をすることだけは変えたくない」と話す。

 今も社名に名を残す創業者の木代重行氏は同志社大学神学部に学び、社会福祉事業家になるという望みを抱いていた。だが、大学卒業後に大阪高等工業学校(大阪大学工学部の前身)で機械設計を身につけ、大阪発動機(現ダイハツ工業)でエンジン設計を行っていた。その後の経過は不明だが、木代氏が27歳の時、兵庫県明石市材木町で「きしろ発動機」を創業、小型船舶用内燃機の製造を始めたことが同社の始まりだ。

 明石は「明石鯛」や「明石たこ」で知られる漁業が盛んな町。漁船需要の多さに目をつけた木代氏が漁船用エンジンで当時主流だった焼き玉エンジンの製造に乗り出した。

 きしろ発動機は順調に事業を拡大し、1926年には明石市内に大工場を建設した。販売先はアジア各国に広がり、陸軍の要請により従業員250人を連れて中国・上海にも進出した。1939年の従業員数は1200人まで拡大した。しかし第二次大戦中には鐘淵工業への吸収合併を余儀なくされ、1945年には空襲で明石造機工場が全焼してしまい、同社の草創期は幕を閉じることになる。

 創業者の木代氏はもともとの夢であった社会福祉事業家に転身、残された従業員らがきしろ発動機の復興に立ち上がった。製造現場の責任者だった松本金次氏(松本好隆社長の祖父)が中心となり、1947年に鐘淵工業から旧明石造機工場を買い戻し、再び船舶エンジンの製造を開始した。当初はかつて製造したエンジンを修理する仕事しかなかったが、戦後の日本復興につれてきしろ発動機の仕事は増えていった。

 1955年には、その後の同社の屋台骨となる船舶部材加工の仕事を神戸製鋼所から初受注した。またフラフープブームなどで急速に普及していたプラスチック製造の仕事にも進出した。一方、小型船舶用の焼き玉エンジンは需要が減少、1959年、同社は祖業であるエンジン製造から撤退を決断した。

 船舶用エンジンの製造を止めた後も、船舶部品に対するこだわりは強く、神戸製鋼所が受注する船舶用部材の切削加工を一手に担ってきた。船舶用クランクシャフトは神戸製鋼所が世界シェアのほぼ半分を受注し、きしろがすべて加工する。1辺が3メートル以上の大型鋳鍛鋼の切削加工や全長20メートル、160トンのタイロッドも国内で唯一加工できる技術力を持つ。

 大型部材を加工できる播磨工場には、戦艦大和の砲身を削り出した旋盤が今も残る。そうした古い設備を改良したり、自社で専用機を製作したり、工夫を重ねて他社にまねのできない大型品の加工法を編み出してきた。

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最終更新:9/23(日) 17:09
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